創作

追憶のドゥ・ミルフィーユ

一. 僕の右手は義手だ。二の腕から先が僕にはない。ずいぶん昔、物心つく以前に事故に遭い、生死の狭間をさまよっていたらしい。そして僕は一部の記憶と、右手を失ってしまった。ある意味で、事故に遭うのが早くてよかったと思っている。作り物の右手という…

森の奥、昔の話

寂れた小屋の中に一人の老人と、一人の青年がいた。老人は杖を置き、黙って椅子に座り、足をさすった。ついで青年がその正面に座った。 老人は目の前の青年を見据え、語り始めた。 「昔の、話じゃよ。街の外れ、誰も立ち入らない深い深い森の奥に、男が一人…

焼き鳥にレモンを添えて

得体の知れない不吉な塊が僕の心を始終押さえつけている。罪悪感、焦燥、自己嫌悪、そのどれともつかない、あるいはそれらの入り混じった、何というか言葉にできない不思議な――しかし、僕の知っている感情。そうだ、僕はそれをよく知っている。けれど知って…

三題噺「海岸」「目覚め」「永遠」

私は眠っていた。多分夢を見たと思う。どんな夢だったか具体的な内容は忘れてしまったが、おぼろげなイメージだけは頭の中に残っていて、私はそれを失いたくないと感じる。確かベッドボードに筆記具があったはずだ、と体をひねり手を伸ばしたのだが、そこに…

スプーン・アット・東京タワー

自分の部屋から東京タワーが見える、という事実が私をなんとなく幸せな気分にしてくれる。眺めは悪くない、どころか十分すぎるくらいだ。ここからしか東京タワーは見えないので、もし私に兄弟姉妹がいればこの部屋の取り合いになっていたかもしれない。そう…

コンフリクティヴ・ラヴ

こんなことを言うと、お前は思春期真っ盛りの中学生か高校生かと思われるかもしれないが、僕は誰かを愛したことがない。いや、正確に言えば、誰も愛せない。愛って何だろう、というのが判らないのだ。全く。 その一因は、酷かった家庭環境と、母に対する罪悪…

コウモリと僕

1 コウモリから僕は実に様々なことを学んだ。とは言っても、その大半はどうでもいい事柄だ。ストライクゾーンの極端に狭い冗談や、知らずに一生を終えても全く後悔しないような雑学。今になっても彼の教えてくれたことの半分も理解できていないのだから、引…

わにの夢

1 俺は夢を見たことがない。将来の夢という意味ではなく、睡眠中に見る夢の方だ。夢はどんなものかということくらいは知っているし、本当は見たことがあるのかもしれないが、少なくとも起きた後も憶えていることはない。知覚できないものは存在しないのと同…

グリーン・シート ―岡山旅行記(2)

「お次でお待ちの方、どうぞ」と愛想の良さそうな丸い顔を向けて女は言った。僕は彼女の方に歩を進める。 「ええと――」考える振りをして僕は言う。「岡山まで、一番早い指定席ってどれになりますかね」 「そうですね、本日は自由席のみという形でご案内させ…

ラッキーストライクのソフトパッケージ、ふたぁつ

腹が減った。そう、腹が減ったのだ。俺は今猛烈に空腹を感じていてそのことが不思議と嬉しい。感動すら覚えている。黄色い壁に掛かった時間を確認すると今は七時ちょうど。ふう、と軽くため息をついてからエアコンを切り、床に散らばっている衣類の中から比…

糸の意図

今日は彼の誕生日だ。彼は二十三歳になった。あたしは今二十一。彼は今どうしているのかな。三年前、まだあたしが高校生だった頃のことを思い出してみようと思う。彼は憶えてくれているだろうか。 確か、その時のあたしは弟の誕生日のケーキを買いに一人で出…