コンフリクティヴ・ラヴ


 こんなことを言うと、お前は思春期真っ盛りの中学生か高校生かと思われるかもしれないが、僕は誰かを愛したことがない。いや、正確に言えば、誰も愛せない。愛って何だろう、というのが判らないのだ。全く。


 その一因は、酷かった家庭環境と、母に対する罪悪感からだと思う。
 僕の父は酒を飲んでは母に暴力を振るっていた。僕を産んだのだから、結婚当初はそんなことをしていなかったと思うが、少なくとも僕は父の笑顔を知らない。父は朝とは限らずいつの間にか起きてフラリと外に出て、夜とは限らず忘れた頃に帰ってきては酒を飲んだ。帰ってこないこともあったし、誰かを連れて帰ってくることもあった。仕事をしない父の代わりに働いていたのが母だ。母は毎朝七時に起きて夜九時に帰ってきていた。何の仕事をしていたかは知らないし知ろうとは思わないし知りたくもない。とにかく、父は何もせず、母が我が家の家計を支えていた。
 父も母も毎度毎度似たようなやり取りしかしていなかった。怒鳴る声は父がいる限りいつもしていたし、何かが割れる音がすることさえあった。僕は言い知れぬ恐怖と戦いながら部屋に閉じこもって、布団にもぐりこんでブルブル震えながら嵐が通り過ぎるのをいつも待っていた。僕だって学習して父が帰ってくるなり部屋に飛び込むようになったのに、どうしてお母さんもお父さんも同じことを繰り返しているのか。それが不思議で仕方がなかった。何で飯の準備ができていないんだ。何で酒がないんだ。金を渡せ。何がそんなに楽しいんだ。どこに行っていた。もう無茶苦茶だった。僕には二人が協力して笑えない茶番を作り出しているようにしか見えなかった。
 母は一体どうして僕を連れて出て行かなかったのだろう。まさかそのことを考えなかったはずはないと思うが、しかし母は黙ってずっと耐えていた。「私がいないとあの人は何もできないから」とか、そういったことさえ言ってくれれば僕も無理矢理自分を納得させることだってできたのに、母は全く何も言わなかった。何も。
 その理由を訊いたことはない。訊くのが怖かったというのもある。しかし僕はどうして父と母がこうなってしまったのかという想像はついている。僕の名前は浩二という。何も考えずに浩二と名付けた訳ではないだろう。つまり、浩一がどこかにいたのだ。僕が産まれる前に死んだのか、それとも浩一自身も産まれる前に死んだか、あるいは双子だったのか、それは判らないが。
 父と母は浩一を失ったことで、それと同時に何かを失ってしまったのだ、きっと。


 そしてこの両親のおかげで、僕は人の顔色を覗うのが奇妙に上手くなった。家の中でのトラブルに比べたら外のことなんて全然大した問題ではなかった。父の気配を察して逃げるのと同じように、何か嫌な空気を察すると逃げればそれでよかった。
 しかしある時、逃げるだけでは問題そのものは解決しないと気づいた。確かに一時的には解決するのだ。黙って閉じこもって逃げてさえいれば、父は疲れるか寝るか外に出るかして、とりあえずその日の恐怖からは開放される。でも、その根底を取り除くか、両親の意識を変えないことには、いつまでもいつまでも茶番は続いてしまう。実際何年も繰り返されていた。
 当時小学生だった僕は、何とかして家の問題を解決してみようと考えた。どうすればいいかは皆目検討もつかなかったし、何となく誰かに相談するのも躊躇われる。ない知恵を振り絞って一人で考えてみたが、やはりストレートに訊く以外の方法は思いつかなかった。ただの小学生に何ができるというのだろう? 今となっても、どうすれば父と母を「普通」にすることができたのか、さっぱり判らないというのに。
 僕は父の機嫌が比較的良さそうな時を見計らって、勇気を出して訊いてみた。
「ねえ、お父さんはどうしていつもお母さんに怒ってるの?」
 バン、と机を叩き父は僕を睨む。その音だけで僕はもう逃げ出したくてたまらなくなって背中に冷たいものを感じる。
「ガキが口出すんじゃない」
「でも」
 でも友達の竹中くんの家は仲良くて、休みの日は皆で出かけたりしてるみたいだし云々、あらかじめ考えていた言葉は一瞬で吹っ飛んだ。僕は尻餅をついていた。頬がジンジンと火照って、どうやら父に打たれたらしいということは何となく判るものの、事実を事実として飲み込めない。
「うるせぇ!」
 父の怒鳴り声に僕は飛び上がった。尻と両手を地面についたまま、僕は震えることしかできない。父の目に縫い付けられたように動けない。何かを言おうとしても喉に引っかかって全然でないし、もう目は真っ赤だ。どうしようどうしようどうしよう……グルグルとその言葉が頭の上を駆け回る。
 不意に父がリビングの入り口へと目を向けた。恐る恐るその先を追いかけると、いつの間にか母がいる。
「浩二には手を出さないであげて。……お願いだから」
 その時の母の表情。たとえ自分が殴られていてもこのような顔を見せたこともなかった。祈るように両手を胸の前で組み合わせて、顔には悲しみと諦観を貼り付けていながらも、切実に何かを訴えるようで、見ている僕でさえ心を抉られた。
 だが父は僕とはまた別の理由で心を抉られたらしい。一瞬呆気に取られ、次いで泣き笑いの表情を一瞬見せ、最後に激昂してこう叫んだのだ。
「そんなに浩二が大事なのか! 俺より!」
 凄い剣幕で立ち上がる父、それと同時に僕も転がるようにリビングを飛び出す。耳を塞いで目をつぶって夢中で駆け出した。何度か壁にぶつかったが、後ろから追いかけてくる母の悲鳴から逃れようと必死だった。僕は逃げたのだ。僕を庇ってくれた母を見捨て、ただ母が殴られるのを見るのが怖いという理由だけで逃げてしまった。その時の母の悲鳴を、僕は忘れられない。


 父は僕に嫉妬していたのだ。当時の僕は「嫉妬」という言葉を知らなかったが、それでも何となくこのことを理解していた。例え母の前に割って入ったとしても、そのことで余計に父は怒るだろう。どうしようもなかった。
 この一件で父をどうにかすることは無理だと諦めた。どうしようもなかったが、たとえそうであったとしても僕は一度きりの挑戦で止めずに、何かをするべきだった。母を見捨てた、という罪の意識がずっと僕を支配していて、母の方に何らかの提案をすることもできなかった。僕にはその権利がないように思えた。少なくとも母は僕を愛してくれていたと思うし、僕だって母を愛していたはずなのだ。でも僕は我が身かわいさに、愛していたはずの母を見捨ててしまった。父の嫉妬という尤もらしい逃避の理由は僕を虜にしたが、罪悪感は消えないで今もずっと胸の中にある。僕は僕の愛を信じられない。


 その後の僕はといえば、その反動からか、外の問題については次々に先回りし、根本の原因を洗い出し、それを解決していった。ただの代替行為だ。内の問題には目をつぶりっぱなしだった。自分の部屋に引きこもっても勉強くらいしかすることがなかった。電話がうるさいと怒られるために友人と遊ぶこともあまりなく、かといって家にいるのも苦痛なので休日はもっぱら近くの図書館で過ごした。僕が一人でいても誰も不審がらないし、お金も掛からない。もしかしたらクラスメイトたちは、あまり一緒に遊ばず、休み時間も図書館に足しげく通う僕に違和感を抱いていたかもしれない。けれど、最低限以上の日常会話をこなしてはいたので、何かのトラブルに巻き込まれるようなことはなかった。
 教師の求めるまま「いい子」になっていった。空気を読むのもどんどん上手くなった。勉強ができるからといって反発を受けるような立ち回りはしなかったし、クラスメイトの間でのしょうもないトラブルにだって頭は冷静なまま怒ったふりをしたり感心したふりをしたりしながら、裏で手を回して解決の方向に持って行ったりしていた。我ながら、小学生にあるまじき能力だったように思う。


 中学二年生になったばかりのころ、父が死んだ。交通事故だ。ポケットサイズのウィスキーの瓶を持ち、赤い顔をして家に向かっていた父は、同じように赤い顔をした運転手によって跳ね飛ばされたらしい。母に請われ二人で病院に駆けつけた時(正直なところ僕は行きたくなんてなかった)、父の顔は今まで見たこともないような穏やかな顔をしていた。そこには凶悪さなど微塵もなかった。最期に父はこう言った。すまない、と。それだけ言ってしまうとすぐに息を引き取った。
 母は泣いたが僕は泣かなかった。泣けなかった。何を言ったのかさっぱり判らなかった。すまない? 無茶苦茶だ。父は言いたいことを言って悔いなく死ねたかもしれないが、残された僕や母はどうすればいい? 今更そんな言葉を聞かされたところで、今までの暴力がなかったことにはならない。理不尽な悪逆非道の権化として、そのまま何も言わずに死んでくれた方がどれだけよかったことか。後悔していたのなら酒なんて飲むべきではなかったし暴力だって振るうべきではなかったのだ。
 僕は父を心底恨んだ。なんて弱く、なんて無責任な父。僕自身の弱さを裏返し、全てを押し付けて、父を呪った。
 父がいなくなってからというもの、母はめっきり老け込んで、前にも増して口数が少なくなった。一体何がそんなにショックだったのだろう。母を肉体的にも、精神的にも苦しめていただけの男が消えたのだから、これから母はようやく人間らしい生活を送ることができるものだとばかり思っていたのに。
 母が父の暴力に耐えていたのは、浩一を失ったことに対する償いのつもりだったのだろうか。自分が悪いのだから好きなだけ責めてくれ、と。責められることで、同時に母は浩一がいたこと、浩一を失ったことを忘れずにいられる。しかし、誰からも責められなくなったことで、浩一という幻想を維持できなくなってしまった。そういうことなのかもしれない。でも、責められなければ耐えられないなんて、そんなの悲しすぎる。


 僕の方は相変わらずだった。皆も成長期を向かえるにつれ行き場のないエネルギーをもてあますような感じで、こぞってスポーツ、音楽、恋愛、そういった発散の場を求めて動き回っていた。一部の人たちはそういった風に自己を発散することを愚かしいと決め付け、しばしばクラスで浮いていじめられたりする。中学生ってそういうものだろう。僕はできるだけいろんなグループの人と付き合い、どこでも同調するようなふりをして一定の距離を保ちつつ、争いを避けていた。
 その頃、図書館で一人の女の子と知り合いになった。僕が言えた柄でもないのだけれど、いかにも図書館に通いつめていそうな地味めな外見で、髪もとりあえず目に入らないようにまっすぐ切って、あとは伸ばしっぱなし、といった感じのロングヘアー。背は低くついでに胸も小さい。顔も覚えようと努力しない限りすぐに忘れてしまいそうな顔で、服だって休日にも関わらずいつも制服だった。ただ、その目立たない風貌の中で唯一眼鏡が異彩を放っていた。眼鏡をはずした途端に可愛くなる女の子、というのは使い古されたネタだけれど、眼鏡をつけた途端に可愛くなる女の子というのもいるらしい。紺色のセルフレームの眼鏡をかけると、目元が急に引き締まってとてもシャープな印象を受けさせられるのだ。
 知り合った切欠は実に些細なもので、彼女が落とした栞を僕が拾って返すと、どうも同じ作家の本を借りようとしていたところだったようで、話が弾んだ、とそれだけだった。翌日図書館に行くとまた彼女がいて、ほぼ毎日来ているということが判る。段々と親しくなっていくうちに、彼女にも図書館にいたい何らかの理由があると知れる。その話をしたがっている彼女を自然な形に誘導して、聞き役に徹して、公平な視点からアドヴァイスのようなものをする。彼女が求めていたことを、汲み取って判らせるだけでよかった。そうこうするうちに、付き合って欲しい、と言われた。好きだ、と。
 そんなわけで、実にあっさりと彼女ができた。彼女になったからにはと、それなりには努力をしたのだが、これまたあっさりと別れてしまった。僕は僕で付き合っている最中はそこそこ幸せだったけれど、ただ、きっぱりと一線を引いて、自分のことを語ろうとはしなかったのが気に入らなかったようだ。「浩二君と付き合っていたつもりだったけど、浩二君の形をした異星人と付き合ってるみたいで気持ち悪かった」らしい。
 確かに僕は自分のことを語ろうとはしなかった。語ったところでどうなる? 僕はちゃんと自分のことを判っているし、自分のことなんて他人に判る訳ないと思っていたし、そして判って欲しいとも思っていなかった。彼女は僕を判りたいと思っていたようだが、僕はそれを求めていなかった、というだけの話だ。そういったすれ違いで、あっという間に別れた。細かいやり
 取りの内容はもう忘れてしまったが、ただ、人間味がないと言われたことには驚いたので、そこだけは今もよく覚えている。


 それからも何度か付き合っては別れて、を繰り返した。大体が向こうからのアプローチをきっかけに付き合い始め、大体の女の子が僕を責めて別れた。付き合っている最中はそれなりに楽しくて、別れたあとはそれなりに悲しかった。


 僕はやっぱり愛とは何かが判らない。確かに、今まで付き合ってきたどの女の子も、皆それぞれに魅力的だったし、好きだった。そこは間違いないのだけれど、愛しているのかと聞かれると、返答に困ってしまう。何度も困った。その時その時で僕が抱いていた感情は、もしかしたら愛だったのかもしれない。「愛してる」と言葉で言うのは簡単だ。でも、言葉にするだけで十分なのなら、それこそ口にする必要はないだろう。僕には愛してるふりしかできない。そもそも愛なんて形のないものなのだ。どうやって愛を示せば彼女たちは納得してくれたのだろう?
 実際に僕が「愛してる」と口にすることはなかった。できなかった。いつもいつも、母の悲鳴が聞こえてくるのだ。僕には人を愛する資格もないように思えるし、愛したこともないと思う。父から逃げ、母を捨てた僕に、果たして誰かを愛することができるのだろうか? 一度愛してしまえばその責任を取らなければならない。でもお前は責任を取らなかった。お前には誰も愛せない。また同じように逃げるだけだ。そういった強迫観念がずっと僕を支配していた。


 しかし、だ。少し前、初めて付き合った彼女と再会した。例の地味めだった女の子だ。
 僕は小さなIT関連の企業で、システムエンジニアプログラマの中間のような仕事をしていた。新しい仕事が入って、先輩と一緒に細かなシステム要件を伺いに客先に出向いた。受付にいたのが彼女だった。どこかで見たような顔だな、と思いながら打ち合わせを終え、自社に戻ろうとエレベーターに乗った瞬間に突然思い出した。十年以上会っていなかったし、本当に彼女なのかどうか確かめる必要性だってなかったのだけれど、先輩になんとか言い訳をして時間を作った。会社でも僕は上手く立ち回っていたので、多少の融通はしてくれるのだ。
 向こうも僕のことが気になっていたらしい。僕が受付にいた彼女に声をかけると「もしかして、浩二君?」と訊かれた。「うん。久しぶり」と言うと、彼女も「久しぶりだね」と返してくれた。昼休みにこれから入るところだったようで、僕たちは一緒に昼食をとることになった。
 初めはやはりギクシャクしていた。お互いに再会するとは思ってもいなかった。今の仕事のことを軽く話して、共通の知人の話へと移り、連絡先を交換して、僕たちは何事もなかったかのように仕事に戻った。
 週末には彼女をデートに誘った。彼女も乗ってきた。僕にも色々あったように、彼女にも色々あったようだ。眼鏡もコンタクトに変えていたし、服装も、化粧も、何もかもが大人びていて、まるで彼女じゃないようだった。
 何度か彼女と一緒に食事をしたり、酒を飲んだりした。以前と同じように、僕は彼女の望むことを先回りして用意し、聞き役に徹した。彼女はそれを懐かしがってくれたし、ありがたがってくれた。ただ以前と違って、彼女は無理に僕に干渉することはなかった。


 僕に何が起こったのだろう? そのことが酷くショックだった。彼女が干渉してこないということにショックを受けている自分に更にショックを受けた。もしかして僕は干渉されたがっていたのだろうか。今まで同じような別れ方をした時も、似たようなことを考え、自分のことを判って欲しいと思ってはいないと結論付けたはずなのだ。そういうふりをしていたというだけで、本当は判って欲しかったのだろうか? それとも、歩み寄ろうとしていた彼女がそうしなくなったために驚いているだけなのか? よく思い返してみれば、干渉しようと踏み込んだところで追い返されてしまった女の子たちは、皆諦めて、あるいは怒って、僕の元を完璧に去ってしまっていた。別れてから少なからず悲しい思いをしたのは、踏み込もうとされなくなってしまったからだったのか? 誰かを愛するということは、相手の領域に踏み込みたい、ということだったのか? そして踏み込んで欲しい、と思うということだったのか?
 そうだ。確かに僕は彼女たちに踏み込んでいった。それは、単に踏み込んで欲しそうな空気を感じ取ったからだ。これは愛だった……のか? 僕はたまたまその辺の空気を察するのが得意で自信があっただけで、本来踏み込むことには不確定な要素もあるし、勇気だっているし、責任を取らなければいけないもののはずなのだ。彼女たちは自信がなかったからこそ、そして確実に僕を愛していたからこそ、不安に思いながらも、しかし手を差し伸べていたのだ。それをのらりくらりとかわされ、あるいは正面から拒絶され、悲しんだり、そこを察してくれない僕に苛立ったのだ。
 僕より彼女たちの方が何倍も凄いじゃないか。母を見捨ててしまったように、裏切るのが怖いというだけの理由で、僕が踏み込みたいからではなく、相手が求めているというだけの理由で干渉していたのだ。そして同様に、裏切られる母の気持ちを強烈に意識していたからこそ、裏切られるのが怖くて干渉されることを避けていたのだ。確かに、僕は誰も愛していなかった……。


 いい加減にそろそろ母の悲鳴を忘れなくてはならない。
 僕が彼女のことを愛しているかどうかは、やはり判らない。愛について考えていることも間違いかもしれない。それでも、僕は彼女が好きだ。愛してみようと思う。間違っていたのなら、反省して次に生かせばいい。


 僕はこれから彼女に電話する。
 プルルル・プルルル・プルルル、と三回コール音が鳴り、彼女が出る。