スプーン・アット・東京タワー

 自分の部屋から東京タワーが見える、という事実が私をなんとなく幸せな気分にしてくれる。眺めは悪くない、どころか十分すぎるくらいだ。ここからしか東京タワーは見えないので、もし私に兄弟姉妹がいればこの部屋の取り合いになっていたかもしれない。そういったことを想像するのも楽しい。朝目が覚めると目覚まし時計を止めるよりも、まず先にカーテンを開ける。今日も変わりなく赤い東京タワーを確認して、それから黒猫の形をした時計に手を伸ばす。些細な幸福感。
 私の父は東京タワーのふもとで母にプロポーズをしたらしく、結婚後は何とかして思い出の東京タワーが見える場所に住みたい、ということでこのマンションに決めたそうだ。そういうロマンチックな家庭に育っただけあって、私もそれなりにロマンチックに育つ。クリスマスはやっぱり東京タワーの前でクレープを一緒に食べて、タワーの一番上まで昇って、手をつないでうっとりと夜景を見て、人目も憚らずにキスしたりとか、そういうのに憧れてしまう。だって女子高生だよ。
 でも私の彼氏はそういうのを判っているのか判っていないのか、頭はいいのだけれど、一度こうだと思い込んだらなかなか考えが変わらない。そんなところで育ったなら東京タワーなんて見飽きてて新鮮味がないだろう、と桜木町に連れて行ったりする。そうじゃない、私は夜景が好きなんじゃなくて東京タワーが好きなんだって! でも判ってくれない。気遣ってくれるのは嬉しいけど、ちょっとずれている、そんな彼。


 ジリジリと目覚まし時計が朝を知らせている。夢の世界から現実に引き戻された私は、いつものようにカーテンを引く。その途端に日差しが私の体を照らして、葉緑素でもあるみたいに気持ちよくなる……のだけど、あれ? 何か違和感を感じる。が、ジリジリジリという音が思考の邪魔をして何がおかしいのかよく判らない。とりあえず猫に手を伸ばす。猫なんだからにゃーって鳴ればいいのに……。いや、そうじゃなくて。
 改めて窓の外を見てみる。ええと? 私はちょっと自分の目が信じられなくなる。寝ぼけてるのか、それともまだ夢の中なのだろうか。目をこすって、大きく深呼吸して、それからもう一度だけ東京タワーを見る。
 スプーン? 多分スプーンだ。東京タワーに、スプーンが刺さっている。
 銀色でツルツルした巨大なスプーン。柄の部分を上にして東京タワーを斜めにブチ抜いて刺さっていて、皿の部分が地面に接している。……なんだこれ? 空から巨大なスプーンが降ってきて刺さったのかな……などと考えるが、タワー自体は以前の形をしっかりとそのまま残していて、欠片が散らばっていたりということもない。まるで最初からそんな形だったかのように。そもそも隕石とかならともかく、スプーンが降ってくることもあるんだろうか? あるのかもしれない。
 もちろんスプーンが刺さるなんてことはありえないし不自然なはずなのだけれど、刺さり方があまりにも自然すぎる。一夜のうちにニョキニョキと柄やら皿の部分が生えてくる……早回しで花の咲く様子を映した環境映像のようなものを想像してみるけど、それも上手くいかない。タワーもスプーンも立派な金属だ。一体どうなったしまったんだ?
 新聞。テレビでもいい。突然スプーンが生えてきたのだから、絶対ニュースになっているはずだ。いや、新聞は間に合わないかな。印刷するまでの時間もあるだろうし。いやそうじゃなくて。私は寝間着のままリビングに行く。母はソファに腰を下ろし、コーヒーカップを片手にゆったりとテレビを観ている。
「お母さんお母さん! タワー見た? テレビ出てる?」
「え? 東京タワーがどうしたの?」
「いや、スプーン、スプーン生えてんじゃん」
「……やあねえ、まだ寝ぼけてるの? 早く着替えないと、間に合わないんじゃないの?」
 え。お母さんは東京タワーに異変が起きたことを知らないのか? 私の焦りっぷりを見て、怪訝な顔をしている。テーブルの上の新聞をパラパラとめくってみてもタワーのことは載っていない。間に合わなかったのだろうか。続いてリモコンを手に取り、チャンネルを順番に変えてみるのだけれど、どのチャンネルでもいつもと同じニュースしかやっておらず、タワーのタの字も出てこない。誰も気付いていない? まさか。私が寝ぼけてるってこともない。ちゃんと何度もこの目で確認したのだ。
「……お母さん、ちょっと私の部屋来て。タワー見てよタワー」
「もーどうしたの一体。はいはい、ちょっと待ってね」
 母はコップをテーブルに置き、律儀にテレビを消してから、私の後ろをついてくる。スリッパの立てるペタペタという音が私を苛立たせる。どうしてだろう。
「ほら、これ! 何でスプーン刺さってるの? 昨日までは普通だったでしょ?」
「え……?」
 母の「え」という声に私は少し安心しかけたのだけど、それは間違いだった。母は東京タワーを見て疑問に思ったのではなく、私を見てそう言ったのだ。何かおかしなものを見つけたかのように、私の方をじっと見ている。「私は今戸惑っています」とでも言いそうな様子で、両手でエプロンを引っ張った。少しの間手を動かしたあと、何かを言いかけて、口を閉じた。
「ねえ、どうしたの? 変じゃない?」
「何、からかってるの? ずっとこんな形だったじゃない」
 違う、と言いたいのだけど言えない。母は本気だ。いつもおっとりしていて、器用に嘘をつける人ではないのだ。今も、私のことを真剣に心配している。そんな顔をしている。嘘じゃない。なら、母はおかしくなってしまったのか? まさか。じゃあ、おかしくなったのは、私? 自信が持てない。自分が絶対に正しいという証明なんてできない。実際に、テレビでも東京タワーの異変については何も言っていないし、タワー周辺に人だかり、なんてこともない。やっぱり私が変なのかな……? でも認めたくない。


 結局どうすることもできなくて、私はそのまま着替えて学校に行く。タワーのふもとまで行って様子を見て来たいのだけど、流石に学校をサボるわけにはいかない。学校が終わってからだ。
 駅までの道のりでも、地下鉄の中でも、駅から学校までの道のりでも、誰も東京タワーのことを話題にしていなかった。たまたまテレビ中継されていなかったという逃げ場は打ち砕かれる。やっぱり変なのは自分なのだ。でもスプーンの刺さっている東京タワーなんて理解できない。一体私が寝ている間に何があったというんだろう、私に?
 ざわついている教室に入り、友人たちの輪の中に入っていつものように中身のない話をする。そこでもやはり東京タワーについては触れられない。自分だけが気づいているということで疎外されたように感じてしまう。口に出して、そのことを言ってみたいのだけど、おかしいやつだと思われるのだけは避けたい。どうすればいいんだろう? と思っていたところに彼氏がやってくる。でもちょっと遅くて、もう授業開始のチャイムがなりそうだ。昼休みに、話してみよう。彼になら話してもいい。
 東京タワーのように、授業にも何か面白いことが起きていればいいのに、と思ったけれどもちろんそんなことはない。友達と手紙のやり取りをしたり、居眠りをしたり、思い出したように真面目に授業を聞いたり、そんなことをしているうちにあっという間に午前中の授業が終わる。正直なところ、東京タワーのことが気になって気になって授業どころではなかったのだけれど。まあとにかく、かばんの中から弁当箱を取り出して、彼の席に向かう。
「ねえ、ちょっと外で食べない?」
「ん? ん……いいよ。いこっか」
 別に私たちが付き合っていることを隠しているわけでもなくて、こういうのもそう珍しい光景ではない。彼と私は友人たちに手を振りながら教室を出る。うちの学校は屋上には鍵がかかっていて出られないのだけど、屋上に通じる扉の前に広めな踊り場があって、これがなかなかどうして、素敵な空間なのだ。運良く今日は先客がいない。隅の使われていない机の中からシートを引っ張り出す。誰が持ってきたのか知らないが、ありがたく使わせてもらう。そういうルールがいつのまにか出来上がっていた。
「ねえ、変なこと訊いていいかな?」
 私は緊張しながらその言葉を紡ぎ出す。もちろん彼はいいと言うだろうが、答えが判っていても訊かずにはいられない。彼なら私の言うことを信じてくれるという思いと、こんな突飛な話を信じてくれるわけがないという思いが、複雑に交錯して私を縛る。
「何?」
「東京タワー見た?」
「へ? いや、最近見てないなあ。どうしたの、一体?」
「いやさ……えっと」
 やっぱり言いづらい。目が泳いでしまう。少しだけゴニョゴニョと口ごもったあと、意を決して私は言った。
「どんな形だった? 東京タワーって」
 やはり彼は少しだけ変な顔をする。母と同じだ。何を言っているんだろう、といった表情。頭の上にクルクルと回転するクエスチョンマークが見える。
「どんなって……普通の形?」
「そうじゃなくて、ちゃんと形を説明して」
「うん、ええと……縦に長い三角形で、下の方は赤、上の方は白と赤が交互」
「それで?」
「で、斜めにスプーンが貫いてる」
 ああ、やっぱり……。前もってこうなることは想像できていたのだけど、それでもやっぱり悲しい。彼氏だけが特別、というわけではないのだ。残念ながら。彼は「ユニークな形だよね。なんでスプーンなんかあるんだろ」と言っている。私はうまく笑えない。
「最初からそんな形だった? 本当に」
「いや……こんなことで嘘言っても仕方ないだろう」
 実にその通りだ。それでも判ってくれない彼に腹が立つ。
「違うの。昨日まで、スプーンなんて刺さってなかった」
「何だそれ、新手の冗談か? はは」と彼は半笑いを浮かべる。
「そんなんじゃなくて、本当に、今日目が覚めたらああなってたの! 何で私だけ気づいてるの? 絶対おかしいよ」
 彼は困っている。目線が左上を向いている。これは「何を言えば困らせないで済むか」と考えるときの癖だ。私は私で、つとめて冷静であろうとしながら、彼の言葉を待つ。彼は戸惑っていて、私も戸惑っている。
「昨日まで、スプーンは、なかった、だって?」
 彼は私の発言をなぞる様にゆっくりと口にする。そう言うことしか出来なかったということは、相当困っているということだろう。
「信じてくれる?」
「うーん、まあ、そういうこともあるのかもしれないけど……」
 彼はそう言った。私と目を合わせることなく。けど、何なんだ。バカ。


 結局、生理痛が酷いとか適当な理由を作って学校を早退した。本当に何だか気分が悪い。学校の帰りに東京タワーに寄ることもなくまっすぐに自宅へ帰った。相変わらずスプーンの刺さっている東京タワーを自分の部屋から眺め、イライラとも無力感ともつかない不思議な感情を両手で弄ぶようにして、自分の世界に閉じこもる。
 何度も何度も同じことを考えてしまう。どうして判ってくれないのだろうか。でもこんな突拍子もないことを判ってくれないのは当然だ。でも……。
 私だけが東京タワーの異常に気づいたということには意味はあるのだろうか。どれだけ考えてみたところで、「どうして判ってくれないのか」「どうして私だけが異変に気づいているのか」という問いに答えは出ない。いい加減考え疲れてしまったし、そういった事実は覆しようがないので、私は逆に「何のために判ってくれないのか」「何のために異変に気づいたのか」ということを考えてみることにする。母も、友人たちも、彼氏も、どうして判ってくれないのか? 逆に誰かが急に「東京ドームにナイフとフォークが突き立っていた」と言われても信じられないだろう。私は私の目を信じているし、誰もがそのような事実を認めてくれていないのだから。みんな自分の世界を守るのに必死な上に、その根拠は根拠のない周囲の同意というものから作られる。そういうものだから、みんなが判ってくれないのも仕方がない。仕方がないけれど、やっぱり悔しい。せめて彼氏くらいは私を特別扱いして、判ってくれてもいいじゃない。私は彼氏が変なことを言い出して、それが常識とは全く食い違っていても信じてあげたい。それはもしかしたら彼氏のことを信じてあげる私というイメージを守るための行動かもしれないけれど、それはそれでいい。理解するのも理解しないのも全部自分を守るためのものなんだから。
 じゃあ何のために私だけが異変に気づいたのだろうか。これは何かのメッセージ? こんな無茶苦茶を起こせるのはそれこそ神くらいのものだ。神は私に何を伝えたかったのか……。いや、さすがにそれは考えすぎかも。単に私の頭が変になったか、たまたま私以外の全員の頭が変になった、その事実があるだけだ。いきなり神とか言い出したりするなんて、それこそ頭がおかしくなったと思われてしまいかねない。それだけは嫌だ。
 パン、と目の前で手を叩き、私は考えるのをやめる。東京タワーにスプーンが刺さっても、崩れ落ちて無くなったとしても、私が日々を生きる上での問題は全くないんだ。まだ日の沈んでいない空を見ながらライトアップされた東京タワーを想像してみる。藍色の空に星は見えないだろうけど、光を反射する銀色のスプーンも案外悪くないかもしれない。そう思い込む。
 東京タワーに上りたい、とはしばらく思えないけれど。