焼き鳥にレモンを添えて


 得体の知れない不吉な塊が僕の心を始終押さえつけている。罪悪感、焦燥、自己嫌悪、そのどれともつかない、あるいはそれらの入り混じった、何というか言葉にできない不思議な――しかし、僕の知っている感情。そうだ、僕はそれをよく知っている。けれど知っているからといって、その影響が和らぐようなものでは決してない。この塊に名前をつけてしまえば楽になれる、もしそうなのだとすれば――名前をつけて見せよう。要するに僕は失恋したのだ。
 これはよくある失恋のパターンの一つで、いずれ時が経てばゆっくりと癒えていくことも僕は知っている。部屋の隅にうずくまって、頭を抱えている僕を俯瞰して眺めてみる。そこには一人の辛気臭い男がいる。何をそんな単純なことで悩んでいるのやら。あまりにもありふれていて、どの本を開いても、どの歌を聞いても、彼の抱えていることに似たものはあちこちに表現されている。彼は自分を大人な人間だと思い込んでいるようだが、一人の女性と綺麗に別れることすら思い通りに行かないただの子供だ。実に陳腐。そんな風に冷静に客観視しているのを自覚できる。しかしその他方では、全てを投げ出して何もかもを終わらせてしまいたいと願って恨んで悔やんでいる自分がいる。そして冷静な僕は、感情的な方の僕が大部分を占めているということを知っている。
 笑ってしまうけれど、僕は彼女の名前すら知らなかった。年も知らない。普段何をしているのかも知らない。恋人でもなければ友人ですらない。知人と呼べるかどうかも怪しいものだ。奇妙な関係。そこにはルールがあった。相手のことを知ろうとしないこと、僕から連絡しないこと、そして恋愛感情を抱かないこと。


 日常と非日常を隔てる壁は、僕が考えていたよりもずいぶんと薄かったらしい。そういうこともありそうではある、しかし起こりはしないだろうと確信を持って言えるような、宙に浮かんだままのリアル感。例えば恋人が自殺したり、交通事故にあって僕だけが生き延びたり、保険金目当ての殺人事件が起きたり。神によって描かれた脚本どおりに僕が生きているのだとしても、少なくとも僕のストーリーは絶対に単純で平凡で、つまらないものであると思っていたのだけれど。
 彼女との関わりは日常から逸脱しすぎていた。その嘘臭いリアルさが僕を虜にした。だって、そうだろう? つまらないと確信していた自分の人生が、突然まっすぐに歩くことも覚束なくなるくらい奇妙なものに変貌したのなら、誰だってのめりこんでしまうに違いない。彼女との関わりは、あるいは彼女自身は、まさしくドラマティックで、幻想的で、信じがたいほどに綺麗だった。多分、そう思いたかった。


 大学生になったのを期に東京に越してきたばかりの頃。まだ入学式前で何もすることがなかった僕は、なんとなく学校が始まる前に友人の一人でも欲しいと考えたのだった。友人はみな地元で就職するなり、近くの大学に通うなりしたために、その時の僕は天涯孤独の身。東京に行くことを強く望んだのは僕だけだ。多分そこには、退屈な人生から逃げ出したいという思いがあったと思う。僕の生まれ育った町は、退屈を絵に描いたような所だった。昨日の次に今日が来て、今日の次に明日が来る――そんな町。
 単身東京に飛び込んだ僕は、手始めにインターネットを通じて友人を作ろうと決めた。適当な語句で検索しているうちに、どこをどうやってたどり着いたのやら、モニターには「友達募集掲示板」の文字があった。黒の背景に赤い文字で彩られ、あちこちに十字架や髑髏のアイコンがある。これはちょっと趣味じゃないな、そもそも危なそうだ、そう思いながらも書き込まれた文字を眺めていたのだけれど、不意に――一つの文章に目が止まった。

  NAME:ヒナコ
    一名様
    退屈な人募集
    090-xxxx-xxxx

 この三行だけが書かれていた。他の書き込みでは、顔文字を添えての自己紹介、趣味などが長々と書かれている中、これだけが歪だった。携帯の電話番号が載せられているのも変だ。通常、こういう場所では用心のために無料で取得できるメールアドレスだけを載せるというのが常なのだが。書き込まれた時間は割と最近だ。携帯の番号を載せるなんて管理者の目に止まったらすぐに消されてしまうだろう。そもそも友人募集を装った悪戯かもしれない。時の止まったような沈黙の中で、パソコンの立てる僅かな駆動音だけが響いている。しかし、僕は確かに魅了された。「退屈な人」という言葉に。
 僕は恐々と、その番号に電話をかけた。胸の鼓動がいつもに増して強く感じられた。コール音を数える。一回……二回……三回……四回……、そして五回目の音が鳴り止まないうちに、彼女が出た。
「もしもし、どちら様?」
「あ、ええと……ヒナコさん? 掲示板の書き込みを見て、電話したんだけど……」
「そう。二時間後に、XXX駅まで来れる?」
「えっ」
 驚いた。彼女が告げた場所は、確か最寄り駅から三つ離れた場所で、それほど栄えた場所ではないのだが。案外近くに住んでいるのかもしれない。いや、そんなことより、まさか電話して一分も経たないうちに場所の指定なんて。こういうのはもうちょっと何らかの手順を踏むものなのでは――。
「七時にXXX駅。来れないの?」
「いや、行ける。七時だね」
「また電話するね」
 プツッという音がして電話が途切れる。口調は柔らかいのに、電話越しでも有無を言わせない雰囲気があって、僕はつい承諾してしまった。握り締めた携帯は、通話の終了を知らせる無機質な音を繰り返している。これでよかったのだろうか。とりあえず第三者による悪戯ではなさそうだけれど、行った先で怪しげな宗教に勧誘されたり、変な薬や機械を売られたりとか、そういったことは大いに考えられる。でも駄目だ。少しくらいのリスクは構わない。僕はもう彼女に会うことに決めている自分を感じる。ここに至って初めて時計を見た。午後五時ちょっと前。彼女と会う頃には、ちょうど夕飯時だ。財布の中身を確認して、出かける準備に取り掛かろう、そう考えた。
 何度も鏡を見ながら出来る限りのお洒落をして、ゆっくりと目的の駅に行ったが、それでも時間は随分余った。指定された時間の十分前になるまで駅前のコンビニで立ち読みをしてから、改札の前で電話が鳴るのを待った。どんな人が来るのか楽しみだったし、もちろん下心もないではなかった。
 約束の時間きっかりに電話が鳴り、僕たちは無事に合流した。綺麗な人だな、というのが最初の印象だった。彼女に案内されダイニング・バーで夕食をとり、そして僕は彼女と寝た。
 そうなることを僕は半ば予想していた。確信と言ってもいいかもしれない。彼女は多くを語らなかった。僕が話をして、彼女がそれを聞き相槌を打ち、続きを促す。多くを語らなかったが、彼女の熱っぽい瞳が何かを語っていた。それは井戸のような瞳だった。
 事が終わった後、同じ瞳のまま彼女は言った。今後も<こういうこと>をしたければ、以下のルールを守って欲しい、と。
「ルール?」
「そう。……私のことを知ろうとしないこと。ただ私からの連絡を待つこと。そして、恋愛感情を抱かないこと」
「変な、ルールだね。どうして?」
「だから、そういうのが駄目なの。どうする?」
「もちろん――」
 一も二もなく、僕は彼女と<契約>を結んだ。


 簡単に言えば、そこにあったのは極めて判りやすい関係でしかない。彼女と僕はただのセックスフレンドで、僕はルールを破って彼女を愛してしまった。それだけのことだ。でも僕は彼女との関係をセフレだとか、そういう風には思えなかったし思いたくなかった。彼女は僕の好意以上の思いに、すぐに気づいていただろう。でも彼女は見ないふりをしていた。そのことが凄くありがたい一方で、やはり辛かった。愛情を見せたくない、見せてはいけないという気持ちと、愛を伝えて何とかして彼女に振り向いて欲しいという気持ちが僕の中でせめぎあい、この葛藤はしばらくの間僕を支配した。もちろん、やがて破綻した。セックスを前提とした付き合いであった以上は無意味な仮定なのだけれど、二人の間にセックスがなければ、こうはならなかったかもしれない。愛する人と愛のないセックスをすることが僕をどんどん追い詰めて、そこから逃げるために安易な快楽にまた逃げる。泥沼だ。どうしようもなかった。グルグルと同じ場所を回りながら、しかし確実に降りていく螺旋階段を思わせられた。
 どうして僕は彼女を愛してしまったのだろう? 何も知らない相手だというのに、どうしてここまで強烈に惹かれてしまったのだろうか? 彼女がおそらくそうしていたように、僕も気軽に欲求を満たせる道具の一つとして彼女を利用していればよかったのだ。いや、彼女が何を思っていたかは判らない。単に、暇を潰す相手が欲しかったのかもしれないし、そういう口実で何か別のものを求めていたのかもしれない。判らないことだらけだ。せめて、僕がどうして彼女のことを好きになってしまったのかさえ判れば、今後に生かすことも出来そうなのものなのに。確かに彼女は綺麗だったし、会話も素敵でウィットに富んだものだったし、セックスだって上手かった。でも――それだけでは不十分に思える。いや、不十分なのだ。一体、どうして?


 彼女にさよならを言い渡されてからは、ろくに食事も睡眠も取れず、死んだように生きていた。けれど人間の本能と言うものは本当に素晴らしくて、僕は気がつけば眠っているようになるし段々食欲だって沸いてくる。心の中にはまだ得体の知れない物体が居座っているが、それでも僕は生きているし生きていかざるを得ない。
 気分転換も兼ねて、僕はアルバイトを始めた。体を動かしている時くらいは彼女のことを考えなくて済むと思ったが、果たして、そうはならなかった。
 選んだ職種がまずかった。もう少し吟味するべきだった。求人雑誌を読むのも面倒で、近くにある居酒屋にした電話してみたところ、ちょうど人手不足だったために用意した履歴書もろくに見られず、即採用という形になった。個人経営の小さな店で、アットホームな雰囲気がどことなく心地よい。客も常連ばかりで、学生がうるさく騒ぐようなこともないらしい。これは当たりクジを引いたかなと思いきや、始まって二回目にはもう行きたくなくなった。
 その居酒屋は焼き鳥をメインに据えているのだが、メニューに「ねぎま」と「ねぎ肉巻き」の二つがある。前者はモモ肉の間に長ネギを刺したおなじみの串、後者はネギを中心に豚バラ肉を巻いたもの。この二つを区別するために、伝票には「ひな」「ねぎ」と書く。
 本当に、本当に男というものは一体、どうしてこうも愚かなのだろう。伝票に「ひな」と書く度に思い出してしまうのだ。本名かどうかすらわからない、「ヒナコ」という彼女の名を。


 そんなわけで、今日も僕は<重労働>を終えた。最後の客を返し、僕たちは片付けに取り掛かる。いつものように僕が在庫を確認して表に書きとめ、もう一人のバイトが調味料を棚にしまい軽く拭き掃除をする。店長は炭を片付け、また別の店員が厨房を片付ける。いつもの光景。
 アスパラガス、長ネギ、玉ねぎ、大根……などなど、野菜類の数を数えていると、不意にあるものが目に止まった。篭の底に転がっていたレモン。何故そんな物が気になったのかは判らない。僕は一旦作業を途中止めにして、その黄色い果物を手にとって眺めてみた。冷蔵庫で十分に冷やされたそれは、手触りもきめ細かく、表面をなぞると若干の摩擦を残しながら、僕に掌との温度差を伝えてくれる。僕はそのまま手を鼻先に持って行き匂いを嗅ぎ、肺の中を酸味ある柑橘の香りで満たす。ふう、と一息つき、レモンを優しく愛撫する。
「おい、何をやってるんだ」という店長の声に、ようやく僕は我に返った。レモンを撫でていました、などと言えるはずもない。店長の方に向き直り頭を下げてから、篭の中にレモンを片付けた。
 その時になって――僕は彼女のことを思い出していたことに気がつく。心の中で舌打ちをする。全く、何をやっているんだか。


 閉店後の雑多な作業も終わり、シャッターを下ろそうとしている店長を僕は呼び止めた。
「あ、店長、中に忘れ物したみたいです。入っていいですか?」
「何だ、鍵でも落としたのか? 待っててやるから、早く取って来い」
「すみません。すぐ戻りますから」
 僕はあることを思いついた。いや、昔読んだ本のことを思い出していた。忘れ物なんてしていない。急いで冷蔵庫を開け、篭を引っ張り出す。その中からレモンをひとつだけ取り出し、テーブルの上に放置して行った。後で怒られるだろうが、そんなことはどうでもいい。
 何食わぬ顔で店の外に出た僕は、待たせてすみません、お疲れさまです、と皆に声を掛け、足早にその場を去った。あのレモンが爆発して店を粉々にしてくれたら、どれだけ気が晴れることだろう。痛快な想像に僕は頬をほころばせた。あまりにも愉快だったので、我慢しきれずに立ち止まり、腹を押さえて小声で笑い出してしまった。吹き飛ぶ店を思い描いて笑っていたし、そんな暗い妄想をしている僕自身を笑っていた。もう、忘れていいかもしれない。
 こちらに歩いてきた中年のサラリーマンが、笑い続けている僕を見て、目を少し見開き驚いた様子を見せた。それがおかしくて、僕はまた笑った。