追憶のドゥ・ミルフィーユ


  一.


 僕の右手は義手だ。二の腕から先が僕にはない。ずいぶん昔、物心つく以前に事故に遭い、生死の狭間をさまよっていたらしい。そして僕は一部の記憶と、右手を失ってしまった。ある意味で、事故に遭うのが早くてよかったと思っている。作り物の右手というのが当たり前の状態なので、物理的な意味で苦労した記憶が特にはないからだ。もちろん、精神的に苦労したことは何度かあったが、まあそれはいい。それに近頃の義手は中々に優れた代物らしく、注意してみないことにはそれが偽物の腕だということが案外判らないのだ。まだまだ実用化には至っていないが、神経から電気信号を読み取って、思い通りに動かすことのできる義手も作られているらしい。いつかは僕も普通の人と同じように両手を使うことができるのかもしれない。でも、仮にそれが実用化されたとしても、取り付けるには多くの費用がかかるだろうし、そこまでして腕を手に入れたいかと言われると、少々考えてしまう。今のところは、単に右腕の空白を見てぎょっとされることがないようであれば、それでいい。
 しかし、彼女と手をつないで歩いている時だけ、僕はこの手のことが気になってしまう。ああ、彼女の左手と僕の右手をつなぐことはできないのだな、と。
 今までの恋人たちは僕の右手を気にして、同情からいつの間にか愛情に変わるというパターンが多かったように思う。居心地がいいのやら悪いのやら、不思議な気分をずっと感じていたものだった。この手でよかった場面もあったし、悪かった場面もあった。客観的に見れば、右手が不自由なのは中々にキャッチーな話題だというのが一つの利点だっただろう。そんな風に客観視できる程度には大人になったということかもしれない。欠点は――何と言えばいいか難しい所なのだが、あえて言葉にするのなら――今まで付き合っていた彼女たちはみんな「手の不自由な僕」を求めているのであって、「僕自身」を求めてはいないような気がしてならなかった。いつの間にかぎくしゃくして、すぐに別れていた原因も、押し付けようと思えばそこに押し付けられるだろう。
 今の彼女にも、確かにそういう部分はある。しかし、彼女だけは何かが違っていた。何が違うのかはわからないけれど、彼女の好意は、不思議と懐かしい気すらするような自然なものだった。あるいは、単に僕がそうあって欲しいと望んだからかもしれない、と思っていたこともあったが、彼女と一緒にいると実に居心地がよくて、瞬く間に一年が過ぎてしまった。
 彼女は僕に何を求めて、僕は彼女に何を求めていたのだろうか?
 このことを考えたことはないと言えば嘘になるが、今まではすぐ近くに彼女がいるという幸福感があり、徐々に安心感に変わり、そして側にいるのが当たり前になって、ようやくそのことを考え直すようになった。一年。長いようで短い時間。答えはまだ出ていない。これから見つけていけばいいと思う。
 ところで、僕には右腕以外にも不具合がある。事故の後遺症なのか、僕は時々ある物事を忘れてしまうのだ。一体どういう理由なのか、忘れてしまうのは女性についてのことばかりだ。記憶を失うというほど大事ではないし、流石に顔を忘れたり名前を忘れたりはしないが、何度か特別な記念日が頭からすっぽ抜けてしまい、怒らせてしまったことがある。今の彼女はそうならないように、付き合い始めた日や、最初に顔をあわせた日など、ちゃんと手帳にメモを取っているので今のところは平穏なのだけれど。
 彼女と付き合い始めて今日でちょうど一年。一応、最長記録を更新し続けている。もちろん彼女は覚えていて、僕も手帳のおかげか忘れてはいない。彼女好みの洒落た店を探し出し、少しリッチにディナーでも、という運びになり、僕はついさっきまで彼女の右手を取り街を歩いていたはずなのだ。


 彼女と待ち合わせをしたのは昼過ぎだったが、彼女の希望で買い物に付き合っているうち、あっという間に午後四時前になっていた。休日でもあったし、ちょうど衣替えの季節だけあり、セール品を目当てに普段より多くの人でどの店もごった返していた。彼女は嬉々として色んな店で色んな服を見たり試着したりしていたが、結局何も買わなかった。何も買わないのに付き合わされるなんて、と嫌な顔をする男性は案外多いらしいし、何となくその気持ちは判るのだけれど、僕自身は比較的こういう時間の使い方が好きだった。服や食器や雑貨という物を介して感情のやり取りをするのが好きだとでも言おうか。彼女もそのことを判っていて僕を連れまわす。好奇心に煽られ、コロコロと絶え間なく変わる彼女の表情を見ているだけで僕は幸福なのだ。
 流石に三時間ばかり歩き回っていると彼女も疲れたようで(当然僕だって疲れる)、どこかでお茶をしようという流れになる。僕はいつものように彼女の隣を歩いた。右側を。目当ての喫茶店に向けて、駅の反対側に渡ろうとスクランブルに向かったところで赤信号につかまり、僕は彼女に何かを言いかけて――何も言えなかった。信号について何かを言おうとしたのだけど、忘れてしまった。何だっけな。
 その時――僕は突然めまいに襲われた。急激に視界がホワイト・アウトして行き、足元がふらつくのが判る。彼女の左手につかまり何とか体制を保とうとするが――そこに彼女はいなかった。僕は確かに彼女の手を握っていたはずなのに、手だったはずの部分にずぶずぶと僕の左手が沈み込んでいくような奇妙な感覚。「千葉君?」という彼女の呼び声を聞いた直後、僕は気を失っていた。


  二.


 目を覚ますと、僕はふかふかの椅子にもたれかかるようにして座っていた。目の前には真っ白なテーブルが一台。それを中心に、周囲の壁は本棚で埋め尽くされている。部屋の広さは6畳くらいだろうか。図書館のミニチュアに、無理やりテーブルと椅子を運び込んだように見える。壁に並んでいる本棚をよく見てみると、そこにある本は全てが文庫版の小説らしく、ハードカバーや図鑑のようなものは見当たらない。順番に本のタイトルを眺めたが、その並び順に何らかの規則性は見出せない。僕もよく知っている古典もあれば全く知らない本もあるし、英語やフランス語で書かれたらしいものすらあった。
 左側の本棚をざっと見終えたところで、僕はようやく自分が全く知らない場所にいるということを思い出した。いや、気付いたと言っていい。ここはどこだ? 彼女はどこにいった? そもそもどうやって入ったんだ? 様々な疑問が浮かんだが、中々頭が回らない。もしかすると、貧血で倒れた僕を彼女がここに運び込んだのかもしれない。
 不意に背後からノックの音が聞こえ、僕ははっとする。何かをいたわるような、丁寧なノック。全くの等間隔で、トン・トン・トン、と三度鳴らされた。その音でやっと僕の後ろに扉があったということを知った。返事をするべきかどうか迷っていると、その逡巡を見透かしたかのようなタイミングで扉が静かに開かれた。
 出てきたのは、ぱりっとした白のシャツと黒のベストに身を包んだ、初老の紳士だった。どこかのバーのマスターとして十分に通用しそうな格好だ。彼はゆっくりと、靴音を響かせながら僕の正面にまで歩き、向き直った。
「お目覚めですか、双見様」
 バリトンの渋い声。バーのマスターというよりは、イギリスあたりの執事のように見える。モノクルや懐中時計があれば完璧なのだけれど。いや、それより――彼は僕の名前を呼んだ。どうして僕の名前を知っているんだ?
「ええと、ここは……」と僕が口を開くと、彼は「カフェのようなものでございます」と言った。
「カフェ?」
「ええ、双見様のための、です」
「一体僕はどうしてこんなところに?」
 彼は少しだけ寂しそうな表情を見せ「おや……お気に召しませんでしたかな? この内装は、私の趣味であつらえたものなのですが……」と言った。僕が何と言ったものか考えていると、くつくつくつ、と変な笑い方をした。
「冗談はさておき」と彼は普通の表情に戻る。「そうですな、ま、夢を見ているとでもお思いください。お代もいただきません。まあ別の形でいただくことにはなるでしょうが」
 彼が右手を顔の前まで挙げ、指を鳴らした。パチン、という音が静かな部屋に響き渡ったその瞬間――テーブルの上にはコーヒーと、ケーキが突如出現した。僕がゆっくりと目をつぶり、再び開いても、ケーキセットはまだそこに存在していた。夢、か。
「どうぞ」と彼は言う。「お召し上がり下さい」
 彼は僕を注視したまま動かない。彼の目に射止められているようで、僕は何だか不快な感じすら受ける。夢……これは明晰夢なのだろうか? 明晰夢にしては現実感がありすぎる。確かにこの部屋そのものや、彼が指を鳴らしただけでケーキセットが現れるだなんて夢以外考えられないのだけれど、こと僕自身に関しては、これが現実のように思えてならない。夢だとわかっている夢を見たことは何度かあるが、今ほど現実感があるわけではなかった。それに、もし仮にここが夢の中なのだとすると、突然倒れた僕を見て、彼女は不安がっていないだろうか。そのことが凄く気がかりだった。
 でもここから出る方法はあるのだろうか? 夢なら早く覚めて欲しいと思いながらも、僕は彼の言う通りにしてみようと決めた。
 改めてデーブルの上を見てみる。どれも高価そうな、真っ白な皿、カップと、銀色のフォーク。コーヒーに砂糖やミルクは付いていない。この男は僕がいつもブラックでコーヒーを飲むということも知っているのだろうか? ケーキは……どこかで見覚えがあった。一体どういう理由なのか、灰色をしたミルフィーユ。そうだ。これは確か、少し前に彼女が買ってきたミルフィーユにそっくりだ。もちろん色は全然違うが。
 とりあえずコーヒーカップに手を伸ばしてみる。ソーサーの白と液体の黒、このコントラストが美しい。そっと一口飲み、味を確かめてみるが……可もなく不可もなくといった所だった。食器の高級感に見合った感じではない。香りや後味は確かにいい。が、酸味やコクもあまりなく、コーヒーらしさを欠いている。もしかすると、ミルフィーユの引き立て役に徹したいということなのかもしれない。
 カップを置き、フォークを手に取るが……僕はミルフィーユは好きではないのだ。片手でケーキを切ったりすることくらいは難なくやり遂げることはできるが、さすがにミルフィーユのように表面の硬いものになると、左腕一本で綺麗に平らげるのは大変だ。男はそのことを知った上で、あえてこんな嫌がらせをしているのではないかという疑問すら浮かんだ。
ミルフィーユはお嫌いですかな?」と男はニヤニヤとした笑みを浮かべて言った。
「うーん……あまり、好きではないですね」
 男は意外そうな顔をして、「それはまた、どうしてでしょう? 何か理由がおありで?」と言った。
「それは……」不思議と僕の目は泳いだ。「だって、食べにくいじゃないですか。甘いものは好きだし、よくケーキやチョコレートを買って食べたりはするんだけど、ミルフィーユは表面が硬いし、僕は右手が不自由だし……」
 僕の言い訳が途切れた合間を縫うように「本当にそれが理由ですか?」と男は訊ねてきた。
 背筋が冷たくなるのがわかった。
 僕はどうしてミルフィーユが嫌いなんだ? 改めて言われてみると、食べづらいという理由だけで、ここまでミルフィーユを避ける必要があるとは思えなくなってきた。そもそも、僕が最後にミルフィーユを食べたのはいつだ?
 ……思い出せない。いつだ? いつ嫌いになって、いつからずっと買っていないんだ?
「どうか、しましたかな」
 男は気をつけの格好のまま立ち、ゆがんだ目と唇で僕を見続けていた。だめだ。心を落ち着かせることができない。右手にフォークを持ったまま僕は固まってしまっている。記憶障害? いや、こんな風に動揺したことは今までなかった。一体どうしてなんだ?
 パン、と男が大きく手を叩くと、僕の硬直は解けた。
「いやいや、すみませんね、あなたを見てるとつい、虐めたくなってしまうんですよ。ところで、ちょっと話を変えてみましょうか。双見様にはご兄弟がおありで?」
「兄弟?」
 この男が何を言わんとしているのか、さっぱりわからなかった。兄弟だって?
「僕には姉なんてい……」
 姉?
 口をついて出た「姉」という言葉に、僕は困惑した。
「ほう! お姉様がいらっしゃいましたか」
「いや……姉……姉さんは僕に……」
 頭痛がする。キリキリと何かをねじ込まれているかのように痛い。僕の手からフォークは滑り落ち、皿に当たって乾いた音を立てる。でもそんなことを気にしていられない。僕は耐えられなくなって両手で頭を抱え込む。姉さん。心臓が激しく鳴っている。その音を容易に聞き取れるくらいに。は、と短く息が漏れる。鼻の奥がツンとして、僕は泣きそうになっている。
 パン、パン。また男が手を叩いた。今度は二回。
 男は直立したまま、顔だけを前に出すような奇妙な姿勢をしている。その顔がどんどん僕の方に近づいてくるような気すらする。オペラのマスクのような歪んだ目が僕を縫い付ける。手を叩いてから少しは心が落ち着いたが、それでも僕の目からは涙が流れ落ちて、テーブルに小さな水溜りを作っていた。
「そうだ……僕には年の離れた姉さんがいたんだ……。どうして忘れてたんだろう……こんな大事なこと」
 姉さん。優しかった姉さん。僕はたった一人の姉のことを今まで完璧に忘れ去ってしまっていて、思い出すことすらなかった。水面に波紋が広がるように、ゆっくりと姉についての記憶が戻ってくる。
 でもまだ完全には思い出せない。姉さんと最後に会ったのはいつだ? どうして僕は姉がいたということ自体を完璧に忘れていたんだ?
 不意に、僕の右手がうずいた。


「まさか……そんな……だって……」
「思い出されましたか」
 彼は静かに言った。この男は一体どこまで知っているのだろう。
「姉さんは、死んだんだ。思い出した。僕の誕生日に、車にはねられて、それで」
 堰を切ったように、涙があふれて止まらなかった。
「そうだ。姉さんが僕にケーキを買ってくれるって。二人で出かけてたんだ。ああ……ミルフィーユを買ってくれたんだ、姉さんは。でも、その帰りに、姉さんは」
「双見様」と僕をいたわるような声で、男は言った。「お姉様がどうしてミルフィーユを選んだのか、お分かりですか」
「いや……」
 僕は左手で涙を拭った。姉のおかげで、僕は右腕を失うだけで済んだんだ。どうして今まで忘れていたんだろう。
「双見様、あなたのお名前は、何と申しましたかな」
「僕の名前、ですか?」
 男は一体何者なんだろう。
「千葉。双見、千葉です」
 ここに来てようやく男は僕から目をそらし、そのまま来たときと同じようにして、靴音を鳴らしながら僕の背後へと歩いていく。
「お姉様ならこう言うでしょうね。ミルフィーユはあなたのためのものなのだ、と。この名の由来をご存知ですか? ミルフィーユという呼称で広く知られてますが、語源どおりに発音するなら<ミル・フイユ>という所ですかね。パイ生地が幾層にも折り重なっているでしょう。そう……」
 男の声は、ここではない、どこか遠くから聞こえたような気がした。
「……まるで、千枚の(ミル)葉(フイユ)のように」


  三.


「……くん、……ば……ん」
 誰かが僕を呼んでいた。
「あ、起きた? 千葉君、どうしたの? 大丈夫?」
「えっと……」
 ここはどこだろう?
「ねえ、どうしたの? 千葉君、泣いてたよ」
「本当だ」と言って僕は目元に手をやりながら彼女に笑いかける。上手く笑えていればいいのだけれど、自信はあまりなかった。「ええと、ここはどこ? どうしたの、僕は?」
「もー……」と彼女はあきれた様に答えた。
「交差点のところで、急に倒れそうになったからびっくりしたんだよ。うわ、て思ってたら『大丈夫、大丈夫』って言いながら、そのままふらふら歩いて、ここに寝ころんじゃったの」
 辺りを見回してみると、確かにここは僕が気を失った場所からそう遠くない、バスの待合室のような所だった。何だか、とんでもなく長い時間ここに寝ていた気がする。
「いや、どうしたんだろね、貧血かな? 何か、変な夢を見ちゃってさ……」
 そう言って彼女の顔を見た。彼女は心底安心したような表情をしている。
 ああ、そうだったのか。
 僕は堪えきれずに笑ってしまう。
 彼女は、姉にそっくりだったんだ。