森の奥、昔の話

 寂れた小屋の中に一人の老人と、一人の青年がいた。老人は杖を置き、黙って椅子に座り、足をさすった。ついで青年がその正面に座った。
 老人は目の前の青年を見据え、語り始めた。
「昔の、話じゃよ。街の外れ、誰も立ち入らない深い深い森の奥に、男が一人で住んでおった。その男はかの有名な魔法使いの一人息子でな、みなから救世主として期待されておったんじゃ。お前さんも知っての通り、本来この街で生まれたものは皆魔力を持たぬ。あの魔法使いと、その息子だけが例外のはずだった、というわけじゃ。しかし、その男は運の悪いことに、魔術の才を持たなかったんじゃな。期待が大きかった分、民衆の落胆ぶりも凄いものじゃった。もちろん、プレッシャーが強すぎた、というのもあったのかもしれん。村人は――当時は街、というより村だったんじゃが――次第に勢力を拡大していく魔王軍に対する反感を、中途半端にしか魔法の使えない、その男に押し付けてしまった。そして男は逃げた。誰にも否定できんよ。仕方のないことじゃった。男も悪くなければ、村人たちも悪くなかった。ただ、時代が悪かったんじゃな――。
 ところがある日、一人の青年が、森に隠れ住む男を訪ねてきた。年の瀬は、男と同じくらいじゃ。その青年はこう言ったんじゃ。僕は勇者です、とな。

『あなたは魔法が使えるそうですね』
『少しだけ、な』
『確かに、あなたの魔術の才は皆の期待に沿えるものではなかったかもしれない。でも――』
『でも?』
『僕は一人ででも魔王を討ちに行く。厳しい旅になることでしょう。そういった厳しい環境の中で初めて、魔術の才が花開くこともあるかもしれない』
『……そうだな』
『それに……そうやって魔王を討つことができれば、あなたもこんな森の奥に住む必要なんてなくなる。誰もがあなたを心地よく迎えてくれますよ』

 男はうなだれて、青年に『帰ってくれ』とだけ言ったんじゃ。男を動かすのに必要な言葉はそんなものじゃなかった。男だってわかっていたんじゃよ。認められたい、という気持ちが自分の中にあることくらいは。青年が訪ねてきてくれたことも本当は嬉しかったんじゃ。でも性根がひねくれていたんじゃな。いざ、魔王を討てば認めてもらえる、お前だって認めて欲しいんだろう、と。そうほのめかされると、ひどく嫌な、悲しい気持ちになったそうじゃ。
 青年は大げさに落胆のため息をついて、出て行った。その青年も、男も、今はどこで何をしているのやら――あるいは死んだかもしれんし、まだ生きておるかもしれん。わしにはわからん。まあ、もし仮に――その青年に息子がいたとすれば、お前さんと同じくらいの年じゃろうな。
 ……話はこれで終わりじゃ。わしにはできることなんぞ何もない。その茶を飲み終わったら、さっさと帰ったほうがいい。日が暮れると、危険じゃぞ』
 老人は椅子に腰掛けたまま、ゆっくりと目を閉じ、そしてまたゆっくりと開いた。何かを試すような目つきだった。それは厳粛な儀式のように見えた。
 男は目の前の老人を見据え、語り始めた。
「僕の父は愚かでした。あなたには申し訳ないことをしたと思います。しかし、あなたはどうしてそんな”昔の話”をしたんですか? どうしてこんな森にずっと住んでいるんですか? あなただって知っているはずだ、もう街の外は普通の人が出歩けないほどに荒廃しているという事実を。あなたは衰えてなどいない。むしろ昔より冴え渡っているくらいです。驚きましたよ、本当に”こんなところ”に人が住んでいるとは思いませんでしたから。
 どうして老いたふりなんてしているんですか? どうしてずっとこんな場所に?」
 老人は答えない。
「一度しか言いません。よく聞いてください。僕は勇者です。たとえ一人ででも魔王を討ちにいくつもりです。きっと、厳しい旅になるでしょう。
 僕にはあなたの力が必要なんです。あなたが必要なんです。もし、ふりでなく本当に足が弱いのであれば――僕があなたの足になりましょう。目が悪いと言うのなら僕があなたの目になります。お願いです。あなたの力を、知恵を、残りの人生を、僕に貸していただけませんか」
 老人は黙って立ち上がった。