糸の意図


 今日は彼の誕生日だ。彼は二十三歳になった。あたしは今二十一。彼は今どうしているのかな。三年前、まだあたしが高校生だった頃のことを思い出してみようと思う。彼は憶えてくれているだろうか。


 確か、その時のあたしは弟の誕生日のケーキを買いに一人で出かけていて、どうやって弟を驚かせようかなと色々なことを想像しながら歩いていた。どこかの曲がり角に差し掛かったところで何かキキキキッとすごい音がして、次に目が覚めるとそこは病院のベッド。
 やけに身体が重かった。あれ、こんなところであたしは何をしているんだろう、と思った。窓から差し込む日差しがやけに眩しくて、目を細めながら辺りを伺うとなんとベッドの横には家族みんなが勢揃いしていて、驚く間もなく目に涙を浮かべた母親がいきなり抱きついてくる。え何?ちょっともーやめてよと言おうと思ったのだけど言葉が喉の奥に引っかかったみたいに全然出てこなくて、あれ、おかしいなとあたしは焦る。そのままもごもごしているとやっと近くにいた医者っぽい人が「気持ちはわかりますが」とか何とか言ってお母さんを宥めてくれる。
 あたしは車に撥ねられたらしい。もっと痛いのを想像していたのだけど、痛みどころか事故の直前辺りからすっぽりと記憶が抜け落ちている。心配したとか何とかみんなが言ってるのだけれど、あたしはまだ現実感を取り戻せないでいて、これは夢じゃないのかなと思う。ぼけっとした頭でうんうん頷いたりしていたのだけど、喉の奥に感じる違和感は消えない。そこに来てようやく周りの先生たちも何かおかしいと気づいたらしくて、「どうしたの?何か喋ってみて」とか言う。「だからあたしはさっきから頑張ってうんうん言おうとしてるんだって!」と言ってやりたかったのだけどやっぱり声にならない。
 色々努力はするのだけど声は出ないまま。でもそれ以外の変なところは特にないみたいで、明日もう一度脳をチェックして、異常がなければ明後日にでも退院できるとのこと。事務処理とか今後どうするのかとか撥ねた犯人をぶっ殺すとかいったことはみんなが何とかするらしい。まだ何か言ってるみたいだけど、あたしはどうしようもなく眠くてそのまま寝てしまう。


 あたしは声を失った。もちろんそれはすごくショックだったけど、でも別に自分の声に特別な思い入れがあったわけでもないし、わりとあっさり慣れてしまった。喋れなくなったから、といって急に疎遠になるような友達なんていらないと思った。
 そしてあたしは声の代わりに、すごく奇妙なモノを手に入れてしまったのだ。退院の準備をしているときに、右足の甲辺りから何だかキラキラしたものが出ているのに気がついた。屈んでよく見てみると、それは長い長い糸だった。糸?すわ医療ミスかと思って、前を歩いていた母親の背中を叩いて、ほらこれこれと足を指し示したのだけど、怪訝な顔をされる。どうもお母さんには何も見えないらしい。
 一時的な幻覚かと思ったが、次の日になっても、次の次の日になっても糸はそこにあった。引っ張れば生え際からスルスルスルといくらでも伸びる。怖くてどれくらい伸びるのかは確かめられなかった。逆側を手繰り寄せてみても、どうやらすごく長いみたいで、あたしの足の甲とどこに繋がっているのか、あるいは繋がっていないのかすらサッパリ判らない。それは重さを感じさせないし、あたしの体以外とは干渉しない様子。……え、干渉しない?スカートを脱ぐときどうすればいいのだろうと思ったけど、なんとスカートを貫通する。なんじゃこりゃ!
 あたしは最初、これは運命の赤い糸だと思った。細すぎてよく分からないけど、太陽に透かしてみる限りではどうやら赤っぽいし、自分にしか見えない不思議な糸なのだから、と。その向こう側にいる未だ知らぬ彼をしばらくの間夢想していたのだけど、理想の人はいつまで経っても現れない。


 運命の人を夢見ることに飽きたあたしは、次第にこの糸を疑ってかかるようになった。そもそも、小指とか薬指から生えてるのならともかく、足の甲から生えてるようなものが運命の糸だなんて。
 例え架空のものであっても構わないから何かの参考にできたらいい、そう思ってあたしは本屋に足を運んだ。小説どころか、新聞すらもろくに読まないあたしに一体どんな心境の変化が、と笑ってしまうけれど、とにかく在庫量の多そうな大きな本屋に初めて入ってみる。一階に足を踏み入れた時点では、近くにある本屋とそう大差はないじゃないかと思っていたのだけど、エスカレーターで二階に昇ってみると、想像していたよりはるかに多くの本が並べられていてびっくりする。しかも三階、四階まであるなんて!
 本の整理をしていた店員を捕まえて、『本を探す機械みたいなのってどこにありますか』と書いた紙を見せる。「ああ、端末ならこっちにありますよ」とその人はあたしを案内してくれる。なるほど端末と言うのか。あたしはそこに「赤い糸」という単語を入れて興味を惹くものがないかどうか調べ始める。
 そして偶然発見したタイトルに、あたしはものすごく魅了されてしまった。「竜の赤い糸でんわ」。赤い糸は関係ないのかもしれない、というかまず関係ない。そもそも中国の教養がどうたらと書いてある。でも、それでも、あたしはその名前に惹かれてしまう。……違う。……いや、わからない。カチリ、と何かがはまった音がした気がした。圧倒的な質量を持ったイメージがあたしの中に流れ込んでくる……。
 まず思い浮かんだのは、孤独な竜。彼は話し相手が欲しかった。でも、恐ろしげな外見と、そこから想像させられる死の恐怖のため誰も近寄ってこない。山のふもとに下りてみることを決意した彼を発見した村人は、しかし恐れをなして逃げてしまう。竜にもちろん敵意はなく、ただ話をしてみたかっただけだ。友達になって欲しかっただけだ。悲しみ咆哮する彼を見て、男は更に青ざめ、躓き、彼の方を振り向いて肩を震わせながらジリジリと後退する。その様子をみて彼はもう一度だけ大きく鳴き、巨大な翼で羽ばたきながら住み家である頂上に戻っていく。
 その日彼は何度も何度も周囲の空気をビリビリと震わせながら咆哮した。その度に木々も震え、何枚かの葉を落とす。
 でも彼は諦めたくなかった。姿が見えないまま、なんとか意思疎通を図れる手段はないかと考えた末、彼が用意したのは、糸でんわ。どうにかしてそれをこしらえ、自分の足元に一方を、もう一方を山のふもとに置いてくる。きっと誰かが話し相手になってくれると信じて。
 ……ああ、あたしは竜のために用意されたでんわだったのだ。


 はっと気がつくと、あたしは屈みこみ顔をひざに押し当て涙を流していた。どうしたのかと怪訝そうな顔でさっき案内してくれた店員がこちらを見ている。何とか涙を無理やり押し留め、急いで店を飛び出す。
 こんな変なことを頼めるのはそれこそ家族くらいしかいない。なんとか家の前にたどり着く。たぶん化粧もボロボロで酷い顔だろう。でも、できるだけ早く、あたしを使って彼に声を聞かせてあげたかった。家の中に入り、母親の姿を探す。いた。キッチンで夕食の準備をしている。テーブルの上に転がっている新聞をひっくり返して、急いでその中から裏が白紙のチラシを探そうとする。その様子に驚いて、こちらを振り返った母があたしの顔を見て更に驚き「ちょっとちょっとそんなに慌ててどうしたの」と聞いてくる。その声で初めてポケットの中にメモ帳が入っていたことを思い出し、変な顔のままちょっと笑ってしまう。
 『なにかしゃべってみて』「どうしたの、一体?……喋る?これでいいの?」母は乱暴でもされたのかと不安なようだけど、一応声を出してくれる。『何かされたわけじゃない。あたしのむこうにだれかいると思って話かけて』。落ち着こう落ち着こうとしながらメモを見せる。「向こう?何を言ってるの?」首をかしげる母に苛立ちながら『いいからはやく』と書く。「……もしもし、もしもし、聞こえますか?」
 多分母の対応に間違いはなかった。でも、あたしの向こう側から返事は返ってこない。弟にも、父にも頼んでみたのだけどやはり反応はない。一分でも、一秒でも早く声を聞かせたいのに、それができない自分の無力さに耐えられなくなってあたしは自室で泣く。声を出して泣きたいのに、その声すらでない。くやしくて、やるせなくて、静かな部屋のベッドにうつ伏せになり枕に顔を押し付けて泣いた。声をなくしたことに絶望したときよりも、声を失う前よりも大きな声で。


 (そこで泣いているのは、誰だ)。突然声が聞こえて、驚いたあたしの涙は止まる。一回だけしゃくりあげたあと、あたしは恐る恐る『声』を出してみる。「……もしもし。聞こえますか」。(聞こえる。人か)。
 幻聴じゃない!あたしの右足はピリピリと軽く震えている。あたしがでんわなんじゃなくて、でんわがあたしの中に入りこんでいたのだ!なくなったあたしの声は、きっと全てでんわの向こう側に流れていたはず。そうだったに違いない。「あなたは竜?」少しの沈黙のあとで、また足が震える。(……そうだ)。「今まで声は聞こえなかったの?何回か声を出そうとしたことはあるのに」。(わからない。長い間ずっと迷っていた。糸でんわを置いて来たはいいが、孤独ではなくなったあとの自分が再び孤独になったとき、耐えられるどうか不安になったのだ。だから今まで糸を外していた)。少しの間。(君たちの命は儚すぎる)。
 「でも、あなたは糸を繋いだ」。(そうだ。そして繋がった。嬉しい。俺は今、嬉しい。きっと)。「よかった。あたしも嬉しい」。ゴウと大きな音がしたかと思うと、糸は今までになく強く震え出す。ビリビリ、ビリビリと長い間足の痺れは止まなかった。
 「竜さん、質問していい?」(何だ)。「他に竜はいないの?あなた一人だけ?」(わからない。が、多分、一人だろう)。「竜さんは何歳なの?」(数えたことなどない。そんなものは無意味だ)。「……うーん、じゃあ、あなたの誕生日は今日。二十年前の今、産まれたの。あなたは二十歳になった。おめでとう」。ビリビリビリ。(何だそれは)。ビリビリビリ。笑っているのかな、とあたしは思う。そうだといい。


 あたしたちはずっと話をしていた。彼は寡黙で、あたしは喋ってばかりいた。どうでもいいことに彼は一々笑ってくれて、足の痺れがくすぐったくてあたしもつられて笑ってしまう。
 (俺が言えた柄ではないが、やはり人間というのは弱い)。「そうよ。だから繋がってるの。あたしたちみたいに」。ビリビリ。


 でも、あたしが思っていたよりずっとずっと早く蜜月は終わってしまった。あたしが間違えたのだ。言わなければよかった。「声と一緒に友達もいなくなっちゃったから、あなたと話ができて嬉しい」だなんて。
 (何……だって)。「あれ?言ってなかったっけ?声が出なくなったって」。(聞いていない。どういうことだ。……まさか声が全部こちらに流れているのか)。「……うん。そうだと思う」。しばらく声は止む。「どうしたの?」
 (すまなかった。俺が愚かだった。終わりにしよう)。「……何を、言ってるの?」(いずれ終わっていたのだ。今終わっても変わりない。声を奪って、孤独にさせて、悪かった。俺のせいだ)。ピリピリ。(一番孤独を恐れていた俺が、よもや人に孤独を味あわせることになるとはな)。違う!あたしは孤独じゃない!君がいる!声なんてなくても他の人とは繋がれるけど、声がないと君とは繋がれないじゃない!そう言いたかったのだけど、『声』にならない。
 (すぐに君の声は元に戻る。すまなかった。そしてありがとう。多分、俺は君を……)
 もう足が震えることはなかった。


 そして、あたしは事故にあう前の生活に戻った。今となってようやく、いい思い出だった、と思える。
 彼のためのケーキを買って帰る途中、また車に撥ねられないかな、だなんて不謹慎なことを考える。
 「俺は君を、何だったのよ。ちゃんと言いやがれ!」スパーンと小気味いい音を立てて、空き缶が空の彼方へ飛んでいった。