ラッキーストライクのソフトパッケージ、ふたぁつ

 腹が減った。そう、腹が減ったのだ。俺は今猛烈に空腹を感じていてそのことが不思議と嬉しい。感動すら覚えている。黄色い壁に掛かった時間を確認すると今は七時ちょうど。ふう、と軽くため息をついてからエアコンを切り、床に散らばっている衣類の中から比較的着れそうなものを選ぶ。と、濁った色の鏡の前に男が立っていて、俺はそいつの顔をマジマジと見つめる。髪はボサボサで頬はこけ、目の下には大きな隈、顔色も下手に日に焼いたように赤黒く、見る人が見れば肝臓でも傷めたのかと思うに違いない。実際は――いや、そんなことはどうでもいい。やっと俺は生き返ったんだ。
 地べたに寝転がっている本どもを踏みつけあるいは跨ぎ、一番履きやすそうなスニーカーに裸足の足を突っ込んで外に出た。――途端に日差しが俺の目に襲い掛かり頭をふらつかせる。ようやく眼鏡をかけるのを忘れていたことに気がつくが、今部屋の中に戻ってしまうと永久に外に出ることはできなくなってしまうかのように思えてしまって、俺の許可も得ず一階に停まったままのエレベーターを尻目に階段に向かって歩を進める。
 さてとりあえず外に出たはいいものの一体どうすればいいんだ?そもそもここはどこだ?


 俺の腹はしきりに飯を要求しているのだが流石に米やら肉やら魚やらを口にする気力はない。まずこいつらにはリハビリが必要だ。思い浮かんだのはヨーグルト。そうだヨーグルトだ。あの半固形の食い物ならこいつらも喜んで消化してくれることだろう。東へ向かう。
 近くのコンビニに到着するまでの間に俺は昨日のことを思い出そうとするが思い出せない。こんな感情を抱いていたはずだというベクトルは思い浮かぶのだが、耳鳴りが想起の邪魔をする。耳鳴り?耳鳴りだ。俺は今さら違和感を感じ何か音を出そうとする。路上に転がっていた空き缶を蹴ってみるがゴという振動を爪先にわずか感じるばかりでカーンという甲高い音は聞こえてこない。おい!と叫んでみるがこれまた音がするだけで声が聞こえない。どういうことだ?俺のおい!に驚いてこちらを振り返った黒のロングコートの女は気まずそうに右折し俺の視界から消える。オー悪かった、他意はない。それとも君が俺の聴力を盗んでいったのかな?


 コンビニにたどり着いた俺はこれを開くと音を取り戻すという念を込めてドアを開けてみるが、当然こんな扉一枚など俺の聴力とは何の関係もなく、店内に流れているであろうBGMは無音のままだ。どこかの雑誌から抜け出してきたかのような曖昧な格好の若い女性が棚を物色していた俺を追い抜いて棚の向こうに消えていくのをみて、俺はこいつこそが音を盗んだ犯人かと妄想する。
 口当たりのよさそうな可愛いりんごのキャラクターの描かれたヨーグルトを手にし、レジに向かう途中でせっかくだから声を出してみようと思い「ラッキーストライクのソフトパッケージ、ふたぁつ」と言ってみたが四十代ほどの主婦らしき店員は無反応。朝からご苦労様!段々腹が立ってきた俺は「左上のですよ。あと、俺の耳を返してくれませんか?」とぞんざいに言ってみたところ彼女は確かにラッキーストライクのソフトパッケージは取ってくれたが俺の音を返す気はないようだ。やれやれ。


 帰り道、俺は右手に持ったヨーグルトを振り回しながら、「いいえ、これはケフィアです」と叫びたい衝動に駆られたがそれを何とか押し留め、今朝の出来事をメタ化して嘘で塗り固めた日記にしてやろうと決意した。