グリーン・シート ―岡山旅行記(2)

「お次でお待ちの方、どうぞ」と愛想の良さそうな丸い顔を向けて女は言った。僕は彼女の方に歩を進める。
「ええと――」考える振りをして僕は言う。「岡山まで、一番早い指定席ってどれになりますかね」
「そうですね、本日は自由席のみという形でご案内させていただいております」
 調べる素振りも見せずに彼女は答えた。年末ならではの忙しさのためか、幾分疲弊した笑顔を見せる彼女に僕は同情したくなる。
「岡山まで、ですよね。十二時五十分発の、お煙草の吸えるグリーン車でしたら、ご案内できますけれど?」
 さすがに少し考える。目的地まで三時間以上の道程を立って行くべきか、それとも代価を支払って座席を確保するべきか――しかしグリーン車は高価すぎまいか。僕が唸っている間にも隣のカウンターのサラリーマンらしき男が会計を済ませて立ち去っていった。今更になって何故事前に切符を買わなかったのかと、自分の迂闊さを恨む。
「ええ、じゃあグリーン席でいいので、それでお願いします」
「はい、ええと……22,330円になります」
 想像以上の請求額に驚き、薄汚れた財布から紙幣を抜き取る手が迷う。はたしてグリーン車両には六千円を余分に支払うに値するものなのか、と。
「ありがとうございました」と事務的に頭を下げる彼女に、僕は何だか騙されているような気持ちになった。荷物が重い。

 なんとか座席を確保したはいいものの、予想外の出費のため財布の中にはもう五百円と少ししかない。土産の品を買うこともできず、また親に小言を言われかねないなと思うが、しかし「グリーン車しか空いてなくてお金なくなちゃったよハハハ」という笑い話のネタが産まれたことを楽しんでいなかったとは言い切れない。このネタに六千円の価値があるかどうかはともかく。


 新幹線に乗り込んだ瞬間、ヤニの匂いが僕を包囲してウンザリさせられる。いったいどこがグリーンなのやら。車内のライトが一般車両と異なる色だったり、座席も広くなっているということで納得させる。僕の席は――12番のD席。同時に乗り込んだ人の群れをかき分けながら歩を進め、僕はようやく腰をおろした。座席もわずかばかりやわらかく感じる。
 前の棚には雑誌が二冊差し込まれており、感心しながら手に取ってページをパラパラとめくってみる――が、残念ながら僕の気を引くものではなさそうだ。

 他にも、ラジオらしきものが設置されていたり、おしぼりを持ってきてくれたり、ゴミを回収に来てくれたり、確かに細々としたサービスはあるのだけれど、やはり煙草の煙のためにグリーンな印象はなかなか抱けそうに無かった。


 僕はゆったりと座りながら、以前書いた小説について考えていた。自己のアイデンティティを「≪世界の敵≫と唯一戦える自分」ということに依存していた男の話だ。倒せると信じていれば≪世界の敵≫を倒せる男。無意識下では≪敵≫の存在や、都合よく自分だけが戦えるということに違和感を感じていたのだが、彼自身は気付かない。しかし、ある人に「君は自分を騙しているのではないか」と言われ、ようやく全ては自作自演だった――敵を自ら作り出し、それを倒すことで自己実現をしていた――ということに気付く。その後≪敵≫の現れることの無くなった世界で、彼はどうするだろうか。……そんな判りやすいストーリー。
 このお話を書いてみようと思ったきっかけは確かにあった。主人公と同じように、いや、もっと直接的な形で自分というものを否定されたのだ。しかし、僕はその時点で気付いていなかった、あるいは気付かないようにしていたはずのことを物語に込めている。そんなことに、今更ながら気付いてしまった。
 どこまでこの愚かな主人公と同じなのだろうかと、泣き笑いのような表情を浮かべながら僕は天井を見上げ、目を瞑った。


 さて三時間ほど経ち岡山駅で在来線に乗り換えようとした時、やっと少しばかりの雨が降っていることに気付いた。実家近くの駅にたどり着いたあとも雨足は強まるばかりだ。駅前のコンビニで傘を買おうと思ったが、ここまでの運賃を支払ったあとの財布の中には二百円弱。ATMなんて親切なものは設置してあるわけもない。

 やれやれ、傘すらも買えないなんて。高い授業料だったよ。ありがとう、と誰に向けるともなく唇を動かし、僕は雨の中に消えていく。