わにの夢

  1


 俺は夢を見たことがない。将来の夢という意味ではなく、睡眠中に見る夢の方だ。夢はどんなものかということくらいは知っているし、本当は見たことがあるのかもしれないが、少なくとも起きた後も憶えていることはない。知覚できないものは存在しないのと同義だ。幽霊もいるかもしれないが、俺は見たことがないから俺にとって幽霊は「いない」。そしていなくても困らない。別に夢を見ないからといって何か困ったこともない。いつもいつも寝るたびに酷い夢ばかり見る人よりはマシな睡眠を取れるし、寝るたびに幸福な夢を見る人よりはマシな現実を生きていると思えるからだ。


 でも不思議なもので、俺が夢を知らないということについてそれはもったいない、夢というのは素晴らしいものだ、などと滔々と語ってくる人は大勢いる。正直なところ、知りえないものについてその良さを語られても何も思うことはない。例えば、俺の母親は携帯を持っていないし、今まで一度も携帯というものを所持していたことがない。でも、専業主婦のため仕事などで緊急の連絡が必要なこともないし、メールだってPCでできる。アドレス帳だってメモ帳だって紙でできたものを使えばいいし、カレンダーは壁に張ってあるものを見ればいいし、アラーム機能だってそれこそ目覚まし時計を使えばいい。彼女はそう思っている。そんな人に携帯は便利だよと言ったところで、そういうものかもしれないね、としか感じないだろう。酒や煙草の酩酊感、いい本を読み終えたり音楽を聴き終えたあとの感動などもそうだ。それを知らない上に必要としてもいないような人にとっては、ニューヨークが今日雨だったということと同じくらいどうでもいい。
 まあ、俺の夢のことこそどうでもいい。



  2


 今日は土曜日。俺はいつものように外に出る準備をする。簡単に髪を整えて白いシャツを着て、濃紺のジーンズを履いてコートを羽織る。本棚からランダムに抜き取った一冊をたるんだ内ポケットに入れ、逆側のポケットに煙草とライターを入れる。本の自重で左右のバランスがおかしくなったコート以外に、何かおかしな所がないか鏡の前に立ってみると、いつも通りの俺がそこに立っていた。大丈夫。
 外は相変わらず寒い。こんぺいとうのようにトゲトゲした空気が入り込んで来ないようコートを前でかきあわせながら俺は歩き出す。目に映るのは中途半端な高さのアパートやガラガラの駐車場くらいのもので、特に俺の気を惹くものは何もない。引っ越してきた当初は駅前もそこそこ賑やかで、買い物や遊び場にはそう困ることはないと思っていたけれど、詰まるのは息くらいしかない詰まらない場所。しかし、家を出て四回右折したところにはお気に入りの喫茶店がある。無計画に拡張を続けた結果なのだろうか、二回左折する方が時間がかかるという迷路のような構造の住宅地にため息をつきながら数分歩くと店の前にたどり着いた。クリスマスが近いからといってそれらしい飾り付けもしていないぶっきらぼうな店構えにやはり俺は好感を抱く。店の名前は「Fanny」。面白い喫茶店がある、と親しい友人を連れてきたことが何度かあるが、友人たちは外観を見たところで一体どこが面白いのやら名前がファニーだからか?と明らかに落胆の色を示す。しかし大体は入り口の扉を開いた瞬間に納得してもらえる。俺が扉を押すとカラン、という音とともに一瞬動きを止めてこちらを伺うマスターと、その首にぶら下がるネクタイの「我田引水」の文字。こいつだ。体型のせいでぴっちりしたドレスシャツもよく見ると面白いが、やはりネクタイのインパクトには適わない。この前来たときは「千手観音」だったこともあわせて考えると、どうやら仏教ネタかという予想は外れたようで実は四文字熟語週間ということかもしれない。マスターはいつも変なネクタイを日替わりでつけている。相変わらずハイセンスすぎて理解できない。意味はないのかもしれないしあるのかもしれない。でも俺はついそこに意味を探ってしまう。一体どれくらいの数があるのか、どうやって入手してきているのかは俺には全くわからないけれど。
「いらっしゃいませ」と言うマスターに軽く会釈だけをして適当な席を探す。客の数は相変わらず少なく、テーブルの上いっぱいにノートや紙切れを並べて勉強をしているらしい学生が一人と、楽しいんだか退屈なんだか判らない表情をしながら世間話に花を咲かせている主婦三人組と、いったい何を間違ってこんなところにやってきたのか理解に苦しむほど仲のよさそうな二十代後半くらいのカップルが一組いるだけだ。近くの壁に掛けられたイギリスの街中らしい風景画を眺めながら、コートから文庫本を取り出して畳み、隣の席にそれを置いて硬い椅子に座る。マスターが水とおしぼりを持ってニワトリのようにトコトコ歩いてやってくる様子は、しかし不思議と美しく見える。上半身はよく肥えているのに下半身は引き締まっていて、前身は外回りの営業だったのかなと想像している。その辺のことについて質問したことはない。そもそも、ろくに会話もしていない。以前俺がライターを忘れてきたときに火を借りようとして、ポケットから自前のライターを取り出した彼に「店のマッチとか置いてみませんか?」と半ば冗談で言ったことがあるくらいだ。次回店に行くと、微笑みながらどこかのキャバクラらしき名前の入ったマッチを無言で手渡されてひどく笑ったというオチがついた。あれはいつのことだったかな。


ブレンド。ホットで」
「かしこまりました」
 カウンターの向こうに彼が消えていくと同時に、主婦連中が上げた大仰な笑い声がこちらに聞こえてきた。
どれだけ人が少なくても、コーヒーが出てくるまで三十分弱かかる。ドリッパーから一粒一粒滴り落ちる水に思いを馳せながら、笑い声をシャットアウトし俺はBGMに意識を集中させる。音楽にはさっぱり疎いため、誰の何という曲かもジャンルすらも判らないが、BGMに徹しようとするかのように自己主張の控えめで静かな音が心地よく感じられる。マスターももう少し痩せて変なネクタイをやめてしまえば、いいBGMになれるのに、と思った。



  3


 ほとんど冷めてしまったコーヒーと煙草を片手に、読んでいた本を一度閉じて目を休ませていると、カランという扉の鐘の音と共に二十歳ごろに見える女の子が姿を現した。彼女はキョロキョロという音が聞こえてそうなほど勢いよく周りを見渡して、誰かを探しているようだ。しかしこんな狭い店、そこまでキョロキョロする必要もなく尋ね人は見つかりそうなものだが。一瞬目があう。って俺?どうも俺らしい。一体何に感動したのやら「おー」と口を開いて、手をぱたぱたさせながらこちらにやってくる。こんな知り合いいたっけな?と考えを巡らせるが思い当たる節もない。誰だろう。真っ白なダッフルコートがよく似合っている。わざとらしすぎる動作はさておき、ぱっと見る限りではそこそこ可愛い。
「いたいた。まさか本当にいるとは。こんにちは」
 これが第一声。何が言いたいのかさっぱり判らず、俺はちょっと身構える。
「はじめまして。ここ、いいかな」
 俺はすでに先客がいる灰皿に煙草を押し付けながら「どうぞ」と答える。
 ニコッとした彼女はダッフルコートを脱いで、小さいながらもずっしり重そうな白いバッグと一緒に隣の席に置いた。どうやらすぐに立ち去る気はないらしい。
「いや、実はね、君のことを夢で見たの。すごく、嫌な夢だった。だから会いに行かなくちゃ、て思ったんだ」
 意味が判らない。夢で見た?俺を?髪と一緒に頭までパーマにかけてしまったに違いない。大仰な身振り手振りで、しかし口調は真剣なまま彼女は話を続ける。
「私の夢はよく、これから起こることが形を変えて現れるんだ。あとになってこのことだったのかと判るような難しい夢もあれば、そのままの場合もある。君の場合は、両方だね」
「両方?」
「そう。簡単に言うと、Fannyって名前の喫茶店で君と会った。ここだね。で、いつか君はわにに食べられちゃうの。そんな夢」
 そう言って彼女は両手をあわせて口のようにパクパクと動かす。つやつやと光るピンク色の爪に、つい目が引き寄せられてしまった。
「わに?アリゲイター?」
「わにって漢字で書くと恐いけど、ひらがなで書くと可愛いよね。アリゲイターは」彼女は首を軽く傾げ、眉をしかめながら言葉を押し出す。「強そう」
「そうだな」
 やれやれ。変な奴に目を付けられてしまった。――と、俺が彼女の話を聞いている間にマスターが近くに来ていたようだ。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりで」
「えっと、甘いのなにかあるかな。あ、カフェ・モカで」
「カフェ・モカですね。お客様は?」
 こちらを見て、やけに大げさに微笑むする彼。大いなる誤解だ。
「いや、僕は大丈夫です」
「かしこまりました」
 俺は一本煙草を取り出してから「煙草、吸ってもいいかな?」と思い出したように訊く。「いいですよ」と彼女。先に取り出しておくのがコツだ。
 火をつけゆっくりと吸い込み、そして吐き出す。煙はフワフワと上方へ漂い、暖房の風にあたって掻き消えた。彼女が話を続ける。
「私は、夢子。本名じゃないけど、嫌いだから勝手に名乗ってる。かっこいいでしょ?夢子。あなたは?」
「じゃあ、俺はレオンだ」
「え、本当にそういう名前なの?ハーフには見えないけど」
 予想外の返答に戸惑いながら、空いている左手でピストルの形を作り、彼女の眉間を狙う。
「……映画だよ。知らないのか?」
「もちろん知ってるけど……」
 大げさに首を傾げ、左上に視線をやりながら考える彼女。俺が首を傾げたいよ。
「で、夢を見たんだって?」
 何かを確認するかのように彼女は大きく瞬きをした。
「そう。変かな」
「変、と言えば変かもしれない。でも、そういうこともあるのかもしれない。俺だって――」煙を軽く吸い込み、そして吐き出す。「夢を見たことがないからね。十分に変だろう?」
 彼女はまた左上を睨み、うーん、と一度唸ったあとで「そうなんだ」とだけ言った。



  4


 何故だかは判らないけれど何となく居心地の悪い気がして、俺はいつものように遅くまで居座ることなく、彼女の話を切り上げて足早に帰ってきた。用事がある、と言って逃げてきたはいいものの、本当のところ特に予定はない。実際は、誰に見せるでもなく書いている小説の続きをただ書いていただけだ。喫茶店で思考の海に漂うことは思わぬ客人との出会いに邪魔されたため適わなかったが、彼女の話し振りや話していたことは中々面白く、得るものがないことはなかった。まさか予知夢を見る、なんてね。
 夢子はどこか不思議と惹かれる人だった。年の瀬は俺と同じくらいだろう。シンプルなダッフルコートは彼女のきめ細かく白い肌と可愛らしい顔に調和していたし、くるくると動き回る表情豊かな瞳、どことなくフワフワした言動もまさに彼女に似合っているように思った。それに比べ、口調だけはしっかりしていることに微妙な齟齬を感じるが。まだ彼女という人をうまくつかめない。だが、夢子という名前は何かに似た響きをしていた。
 それにしても、と俺は考える。俺が食べられてしまうわにとは何なのだろうか。わにが心のメタファーなのだとしたら、それはあまりにも安易に過ぎるしつまらない。きっと何か意外なものであるはずだ。いや、そうあって欲しい。
 そんなことを考えながら、今日も原稿用紙に換算して五枚ほどをなんとか書き終える。思うように動いてくれない主人公への不満と、思うように書けない自分の筆力の情けなさが入り混じった嫌な感情を吸い込み、煙にして吐き出そうと試みる。きっとそれは紫色だろう。



  5


 日が沈みかけた窓の外を眺めながらプロットを考えていると、カラン、と音が鳴った。そちらを向くとどこかで見た顔があった。夢子だ。マスターにひらひらと手を振ってから、俺の方にも同じく手をひらひらさせながら近づいてきた。先週と同じ席に、同じように腰を下ろす彼女。今日はオフホワイトのロングコートだ。白が好きなのだろうか。
「こんにちは、レオン」と彼女が言うので「こんにちは、夢子さん」と返す。彼女は何が気に入ったのか、音が聞こえそうなほどのニコッとした笑みを浮かべた。
「名前、覚えててくれたんだ」
「まあ、インパクトあったからね。予知夢をよくみる夢見がちな夢子さん」
「ははっ、何それ」と言ってから一呼吸置き、大きく手を上げてマスターを呼び止める彼女。「カフェ・モカをひとつー。あ、君は大丈夫?」
「じゃあ、僕もおかわりを」
 こちらを向いて、静かに小さく彼は肯いた。
「今日は普通……なんだね」
「ん?何が?」
「ネクタイだよ。紺と白のストライプ」
 俺は嬉しくなってしまい、口角を上げて言った。
「よく見てみるといいよ。牢屋を模したものらしい。左下に、小さくうずくまった囚人が描かれてる」
 目を細めながらくすくすと彼女が笑う。
「先週から気になってた?」
「それはもう。だって、『我田引水』だよ? 信じられない」
「俺の知ってる限り、誰も信じたことがないらしい」と言って、俺は煙を壁の絵画に向けて吹き出した。軽く伸びをしてから足を組替えていると、夢子がテーブルの隅に除けておいた紙切れに目をやって「これ、何?」と訊ねた。
「プロットだよ。小説の」
「へえ、小説を書いてるんだ」ただでさえ大きな目を更に大きくして彼女は言った。
「もしかして、作家さん?」
「いや、ただの趣味だよ」
「じゃあ……」と少しはにかんだ表情で言う。「レオン、あなたの仕事は?」
 彼女と目が合った。じっくりと間を置いてから、俺は重々しく答える。
「掃除屋だ」
「殺し屋ってこと?」
「……そうだ」
 一瞬の沈黙。
「ぷっ」
 俺たち二人は大きく声を挙げて笑った。思ったより、いい奴かもしれない。
「冗談はさておき、本当は何してるの?」
「うーん」正直なところ、あまり訊かれたくない話題だった。「ま、フリーターってところ。夢子さんは学生?年は同じくらいに見えるけど」
「うん、今二年生。あと、夢子、でいいよ」
 俺は一度大きくなずいて、煙草をもみ消す。俺は気になっていたことを訊ねた。
「で、今日はどうしたの?」
「ん?んー、レオンに会えたらな、と思って。やっぱりわにのことが気になるんだよね」
「うん。俺も気になってたんだ。具体的にさ、どんな感じだったの?」
 コクリと一度肯き、引出しの中から何かを探るかのような表情を見せた。
「えっとね、そこは入り口も出口もない、窓すらない箱の中みたいなところなの。私は、その部屋の天井近くに監視カメラみたいに張り付いてて、自分の姿も見えないし、視線を動かすこともできない。ただ、あなたの方を見てた」
 軽く肯いて続きを促す。
「あなたは壁際に置かれた椅子の上にボンヤリと座ってるの。何とか声をかけようと思うんだけど、もちろん声は出てくれなくて。そうしてると、椅子の陰から黒いモヤモヤが出てきたの」
「うん」
「それは黒いはずなのに何処かギラギラとしていて、明らかに敵意がありそうだった。でもあなたは気づかない。私は何度も声を出そうとしたの。あぶないよ、って」
 彼女は大きく溜息をつき、目線を上の方に動かした。僕は黙って話の続きを待つ。
「そのモヤモヤはゆっくりと形を変えていったの。あ、これはわにだ、きっとあの人は食べられてしまう、って思った。ゆっくりとわには動き出して、あなたの垂れ下がった右手に狙いをつけて、大きく口を開いたと思ったら、バクン」
 そう言う彼女は、顔の一部だけをどことなく悲しそう形に変えたように見えた。
「それで、俺はどうなった?」
「ううん、それだけ。噛みちぎったとかそういう感じじゃなくて、噛まれた先から綺麗に消えちゃった見たいな感じ。それでも君は気づかなくて、私がやめて!って叫びたくなったところで、目が覚めたの」
 ふう、ともう一度息を吐き、足を組替える彼女。
「何だか……よく判らないな」
「夢ってそういうものよ」
「俺は見たことがないからね」そう言って俺は一本煙草を取り出して火を点けた。音もなく近づいていてくるマスターと目が合い、僅かに微笑まれる。
「おまたせしました」と静かに言い、機敏にコーヒーカップを並べる。本当に様になっていて、思わずうっとりしてしまいそうだ。マスターを見送ってカップに同時に口をつけたのを確認してから、俺は言った。
「わには何の象徴なんだろう」
「私には判らない。心当たりは?」
「ない、と言えばないし、ある、と言えばあるんじゃないかな。誰だって、わにくらい心の中に飼ってるだろうさ」
「そうかもしれない」そう言いながら、彼女はうつむきがちのままカップの取っ手を優しく撫ぜた。
「でも、何もできなくて、ただ見てるだけしかできなかったのが、何だかくやしくて」
「そうかもしれない」と同じセリフを言い「でも、ありがとう」そう言って彼女に微笑んだ。



  6


 俺がベッドに寝転がりながら何をするでもなくうつらうつらとしていると、携帯が震えてはっと目が覚めた。五回ほどのコールを待って、やり過ごそうという考えを払い布団から抜け出した。携帯のサブスクリーンには「畑本」の文字。二十一時、か。
「もしもし」
「あ、もしもし?久し振り、元気だったー?」
 背後にガヤガヤという喧噪が聴こえて、急に現実に引き戻されたかのような気がした。
「まあ、そこそこってとこだね」
「そうかそうか。彼女はどうしたよ?」
 俺は少しだけ考える振りをする。上手くできた自信はない。
「彼女?」
 電話の向こう側で誰かがグラスを倒した音がした。どこか飲み屋にいるのだろうか。
「おーい何倒してるんだよ!ハハハ……やー、すまん。今イッシーたちと飲んでるんだ。お前も来ないか?」
 少し考えてから答える。
「悪い、今金ないんだわ」
「そうかー、残念だなあ、懐かしい顔もいるぞ?……でもお前昔から金なかったもんなあ。はは、相変わらずか」
「そうだな」
「んじゃ……まあまた機会があったら出てこいよ。皆会いたがってるぜ」
「うん、ありがとう。すまん、またな」
「おう、元気でやれよ」
 プツン、と音がして電話はあっさりと切れた。沈黙の支配する部屋の中で俺は昔の友人たちのことを思い出そうとしてみた。
 当時流行していた漫画を貸した数日後に、これに影響されたんだよ、と言い突然スキンヘッドにして皆を爆笑させた畑本。いつもおどけていたが、ちゃんと気も配れるし人を引っ張ることもできる俺たちの良いリーダーだった。学外でバンドを組んでたらしいイッシー。歌が滅茶苦茶上手かった。バンドマンになる、と豪語していたがそれはどうなったのだろう。他に居るとしたら、ヤスオか。口数が少ないながらも、時々のするどい突っ込みにはいつもドキドキさせられたものだ。
 皆今は何をやっているんだろう。俺は少しだけ誘いを断ったことを悔やんだ。



  7


 翌日はまた電話の音で起こされた。今度の文字は「夢子」だ。俺はすぐに飛び起きて目を擦り、気合で眠気を遠くに追いやってから電話に出た。
「もしもし」
「あ、ごめん、起こしちゃった?」
 壁にかかっている時計を見る。十二時ちょっと前。
「いや、ちょうど起きようと思っていたところだから」夢の中で。
「ならよかった」
「うん」
 彼女は齟齬に気づかなかったようだ。俺は電話を手にしたまま再びベッドにあお向けに寝転がった。ぽすん、と軽く音を響かせる。
「ねえ……」彼女はほんの少しだけ躊躇を含ませたような声で言った。「今夜は暇?よかったら何処かへ飲みに行かない?」
 一瞬考えて答える。「わかった。いいよ」
「うーん、そうね……」向こう側で首をかしげながら考えている彼女の姿が脳裏に浮かんで、消えた。「駅に七時でいいかな?」
「うん。大丈夫。じゃあまた夜に」


 毎週土曜日にFannyで何となく話をするだけの関係から一歩前進できればいい、と思いながら俺は最寄の駅で彼女を待っていた。時間はちょうど約束の十分前。連絡先を交換してはいたものの、俺からも彼女からも今まで全く連絡することなく店で会うだけだったので、これはいいチャンスかもしれないという思いと、急にどうしたのだろうかという不吉な予感が交錯して、自分でも何を考えているのかよくわからなかった。本を読む気にもなれず、改札を通り過ぎる人の群れを観察していた。平日の七時というだけあり、サラリーマンが多い。もう年末も大詰めを迎えつつあるようで、誰も彼もが同じように疲れた表情を顔面に貼り付けていて、そこから伺える忙しさに同情したくなる。合間合間に現れる学生らしき女の子の集団の笑顔だけがきらびやかで、眩暈に襲われてしまいそうだった。煙草を吸いたくなったがいつ彼女が現れるとも判らないので俺はそのまま壁に寄りかかったまま片目を細めてぼんやりとしていた。
 夢子は時間ぴったりに現れた。てっきり改札の向こう側から現れると思い込んでいたのだけれど、突然横から声をかけられてまさに不意を討たれたような形になった。
「おまたせ。こんばんは」
「ん」
ビクッと背筋を震わせてから俺は彼女の方に向き直り軽く片手を挙げて答えた。
「何処か良い店知ってる?」そう言う彼女は最初に会った時と同じ真白なダッフルコートを着ていた。
「良いかどうかは判らないけど、前から気になってた所があるんだ。そこでいいかな」
「うん」
 俺たちは二人並んで歩き出した。十二月も終わりというのにまだ雪も降らないくらい暖かい冬のはずなのだが、それでも寒いことには変わりなく、俺は冷えた手を温めるためにコートのポケットに両手を突っ込んで黙っていた。何かを口にすればそこから体温が逃げてしまいそうな気がした。彼女は彼女で、いつものおしゃべりや陽気な感じはどうしてしまったのやら、うつむき加減でゆっくりと俺の横を歩いている。俺たちの横を大きな音を立ててバイクが通り過ぎていった。ふと空を見ると、月が見えるか見えないかくらいの微妙な曇り加減だった。
 店の前にたどり着くまでの十分弱の時間が永遠に感じられた。俺たちはずっと無言だった。
「ここ。看板だけ出てて気になってたんだけど、一人で入る勇気が中々湧かなくてね」
「ふーん。確かに良さそうな所だね」
 そう言って二人で看板を覗き込む。モノトーンのシックな感じにまとめられており、手書きの文字も堅苦しくなく、かといって柔らか過ぎず。何枚か貼られている店内の写真もいい雰囲気を伝えている。階段を下り、俺たちはダイニング・バーの中に足を踏み入れた。
 年末というだけあり想像通りもう既に人の数は多く、隅の小さなテーブルよりは、と大きな一枚板のカウンターに案内してもらった。
「何にする?俺はビール。まずは様子見だ」
「何か甘いやつ、ないかな」
 細長いメニューを眺めている彼女を見ながら、俺は腕を組んで少し笑う。
「夢子、それ、前も言ってたな」
「そうかも。でも、何でも甘くないとだめだよ」
 そう言う彼女は、やはり何処となく声のトーンが暗い気がした。



  8


 軽く食事を終え、完全にアルコールをメインに据えるようになっていた。カウンターの上にはシーザーサラダの残骸と、ナッツの容器、それに二人のグラスだけ。手を伸ばしたグラスが空になっていたことに気がついて、俺はカウンターの向こう側の店員にジンライムを頼んだ。
「お連れの方は?」と氷が溶けたために薄くなってしまったファジーネーブルに手を向け、男が訊ねる。夢子はそれに答えず、トールグラスを掴んで一気に飲み干した。
「おいおい、大丈夫か?」
「平気よ。薄まってるもの」トロンとした目で彼女が言う。本当に何があったのだろう。「甘いの、何か作って欲しいな。ショートカクテルで」
 男は一瞬考える素振りをして「かしこまりました」と答えた。
 顔はあまり赤くなっておらず、さほど酔っているようには見えない夢子だが、両手をカウンターに乗せてその上に顎を乗せて黙っている。ずっとこのままだ。俺は何か言おうとしたが、やはり思いとどまって煙草に火を点けた。
「煙草」こちらを見て彼女が言った。
「ん?」
「煙草、ちょうだい」
「……どうぞ」と俺が答えるより少しだけ早く彼女は俺のシガレットケースに手を伸ばす。一本抜き取って咥えた彼女に向かって、火のついたライターを差し出した。夢子は左手で髪をさっとかき上げてから、顔をこちらに近づけて火を点した。黙って大きく息を吸い込む彼女と、薄暗い店内の中で浮かび上がる赤い光のコントラストが場違いに綺麗だった。沈黙の横たわるカウンターで、俺たちは煙草を吸う。彼女はどうみても吸い方に不慣れな感じがあって、見ていて飽きなかった。
「まずい……」と言って彼女は乱暴に半分ほどの短かさになった煙草を灰皿に押し付ける。俺はもう一口だけ煙を吸ってから言った。
「何があった?」
「なんでもない」
 目を合わせようとしない彼女を横目で見ながら、俺も煙草を消す。
「お待たせしました。こちら、ジンライムと、こちら、ホワイト・レディーになります」
「白のダッフルコートだから?」
 ニヤリとした俺に向かって男も笑いながら返事をする。
「ええ、少々安易でしたかね?」
「そんなことないですよ。俺は好きだな」
 別に客に呼ばれた彼に向かって、彼女の代わりに「ありがとう」と言った。俺は彼女が話し始めるまでずっと待っているつもりだったが、その時は思ったより早く訪れた。
「夢をね、見たの」
「うん」
「もう嫌。夢なんて見たくない」そう言ってグラスに口をつけた。「どうして夢って自分の思い通りに動かせないんだろうね」
「そういうものなのかもしれない」
「うん。……そうか、レオンは見ないんだったね」
「現実だってそうじゃないか。思い通りに行かないことばかりだ」
「そうかも」
 夢子は自分の感情を持て余しているかのような仕草をしながら右手で左手の甲を撫ぜていた。
「そういえば、そうだったね」



  9


 ずっと二人で黙って飲んでいたためペースを乱されてしまい、俺はいつも以上に酔っているみたいだった。きっと彼女も同じようなものだろう。しかし、不思議と気まずい感じのする沈黙ではなかった。
「出ようか」と彼女に声をかけられ、会計を済ませて外に出る。もう十時を過ぎているものとばかり思っていたけれど、時計を確認してみるとまだ九時を少しまわったところだった。二人の周りだけ時間の流れが停滞しているのではないかと思う。空はまだ曇っていて、星なんて見えなかった。
「ねえ」頬を赤く染めた彼女は、今までとはうって変わってはっきりとした口調で言った。「行きたいところがあるの。ついてきて」
 俺は黙って彼女の後を歩いた。俺などいないかのようにずんずんと早足で歩いている。
「もう判らないのよ。こんなの初めて。こんな風になるつもりはなかったのに」
 彼女は思い出したように口を開く。
「皮肉屋だし。自分を守りたくて虚勢を張ってるんでしょう」
「俺?」
「あなたよ」
 赤信号に阻まれ、俺たちは立ち止まった。
「馬鹿な振りをしてる私も言えた柄じゃないけどさ。いや、馬鹿なんだけど」
「大丈夫?」
「大丈夫よ!」
 黙りこくっているうちに信号は青になった。
「ああ、もう、馬鹿」
 俺は何も言えなかった。何処に向かっているのかもまだ判らなかった。
「関われないのが悔しかったの」
「うん」
「何で? そんなに好きなタイプじゃないのに」
「うん」
「何かまともなことを言ったらどう?」
 夢子は本当に怒っているようだった。俺は思いついたことを言ってみることにした。
「君の名前、本当はわにって言ったりしないよな」
 彼女の顔が呆れた、と言っていた。
「……馬鹿じゃないの?」
 そうかもしれない。
「ああ、馬鹿なのは私だわ……」そう言って彼女の歩みはだんだんとゆっくりになり、ついに止まった。ネオンが眩しくて、場違いなところに迷い込んできたような気がした。
「ここ」彼女は俺の方に振り返った。「関われないのなら、無理やり関わってやる」
「いいのか?」
「お酒のせいよ」
 そうかもしれない。俺はまだ、彼女の本名のことが気になっていた。