コウモリと僕


  1


 コウモリから僕は実に様々なことを学んだ。とは言っても、その大半はどうでもいい事柄だ。ストライクゾーンの極端に狭い冗談や、知らずに一生を終えても全く後悔しないような雑学。今になっても彼の教えてくれたことの半分も理解できていないのだから、引き算をすれば自然とそういったものしか残らない。


 彼は「JOKE」という冗談のような名前のバーの常連だった。僕が一人でバーに行こうだなんて思いつくのは、二つの原因しかない。何かいいことがあったか、悪いことがあったか、だ。
 そしてその店を選んだ切欠も大したものじゃない。誘蛾灯に吸い寄せられるように、というほど強くはない。精々、目をつぶって歩いていたらいつの間にか左に曲がっていた、というくらいの理由だ。


 「OPEN」という文字をぶら下げている扉の前で、僕は一度足を止めた。プレートは丁寧に磨き上げられており、薄ぼんやりと僕の顔を反射している。それに比べ、扉は苔が覆っていると言われても納得できそうな感じの色。ギギギ……と軋む音を響かせながら、一歩を踏み出す。
 柔らかな明かりが僕を迎えた。沈みかかっている夕日を濃いサングサス越しに眺めれば、ちょうどこれくらいかもしれない。初めて訪れる店にもかかわらず、久しぶりに帰ってきたかのような感じがした。
 テーブル席のない極々小さな店の内には、二人の男がいた。カウンターの向こう側でグラスを磨いている男と、カウンターのこちら側に腰を下ろし真剣な顔をしている男。僕に向かって「いらっしゃいませ」という言葉を投げかけたのは、なんとこちら側の男だった。
「君が来るのを待っていたんだ、君は喫煙者かい?」
「ええ、吸いますけど……」
 戸惑いを隠しきれない僕を尻目に、男は細長い顔を精一杯横に伸ばすような笑顔を浮かべた。
「ようこそ! 君は我々の仲間だ!」
 カウンターの向こう側の男は、扇風機が回る程度の音を響かせて笑う。
「こらこら、せっかくのお客様を驚かせてどうする」と子供のいたずらを見守る父親の顔つきで言ってから、僕をカウンターの男の隣に案内してくれた。背の高い小さな椅子は、発泡スチロールでできているかのように軽い。しかし作りはしっかりしているらしく、腰を下ろした僕を確実に受け止めてくれた。渡されたおしぼりの暖かさを確かめるように両手で弄んでいると、隣の男は神妙な顔つきで僕に話しかけてきた。
「こいつの名前はタナカって言うんだ。実に残念なことに、顔はいいのに頭がおかしい。店長の俺を差し置いて、毎日店にやってきてはグラスを磨きたがる。その間俺は酒を飲む」
「ですから私はタナカじゃなくてナカタですって。……彼が金を落とす役で、私が拾う役。嘘ばっかり言わないでくださいよ」
「な? これだよ。かわいそうなヤツだ」
 この洗練されたやり取りに、僕はただ苦笑するしかできなかった。どう考えても僕の隣の男が嘘をついているのだが、それを演じる彼は余りにも様になりすぎていて、かえってシュールな笑いを生んでいた。
「で、だ。火を貸してくれないか?」
「いいですよ、ちょっと待ってくださいね」ゴソゴソとカバンの中からシガレットケースを引っ張り出し、ライターを抜き取って彼に手渡す。顔と同じように細長い手で、彼はそれをぐっと握った。
「これでやっと煙草が吸える。この出会いを神に感謝だ。最初の一杯、ご馳走しよう。何を飲む?」
「いいんですか? でも、ありがとうございます。……それじゃあ、ビールを」
 ナカタさんはいつの間にかグラスを取り出していた。自慢げな表情でそれを掲げながら、ゆっくりと時間をかけて小さく肯く。おや、と思う間もなく、彼はビールサーバーに向き直って言った。
「ビールを飲まれそうな気がしたんです。長年やってると、そういう雰囲気がわかるようになるんですよ。間違えていたならこっそり仕舞えばいいし、そう分の悪い賭けじゃない」
 しきりに感心している僕に、コースターに描かれた蜂が「計画通り」という感じの表情を見せていた。
 実にいい店だ。


「それじゃあ、君のライターに乾杯」
 グラス同士が触れてカチンと冷たい音を立てる。その音が消えてしまわないうちにグラスを傾け、僕はビールを一気に味わう。舌の上で踊る苦味、鼻を抜ける微かな麦の香り、喉を刺激する炭酸――。ふう、と一息つくころには、既にグラスの中身は半分ほど消失していた。ビールと一緒に心のわだかまりも飲み干してしまったような感じがした。
 男はうまそうに煙草を吸っていた。煙草とアルコールの組み合わせはどうしてこうも我々喫煙者を魅了するのだろう? 負けじと僕も煙草に火を点ける。煙を吐き出したところで、僕はあることが気になって、訊ねてみることにした。
「火って、店で借りればよかったんじゃないですか?」
「タナカはライターもマッチも大嫌いなんだよ。それで親が死んだから」
 意外な答えと「死」という直接的な単語とのために少し飛び上がりそうになったが、よく考えればこれも彼なりの冗談なのだろうと思い至った。ナカタさんを見ると、案の定小指一本分ほどの笑みを浮かべていた。
「ところで、君は何を吸ってるんだ?」
「これです」と言ってラクダの描かれた箱を見せる。それを見た彼は、奥歯に何かが挟まって取れないような顔をして言った。
「それ、ラクダの味がするだろ? よくそんなの吸ってるな」
「いやあ、最初に吸い出した時から、ずっとこれなんですよ。このラクダにも愛着が湧いちゃって」
 僕は大げさにそのラクダを撫でる。その様子を見ていた彼は、挟まっていたものが取れたのか、急に機嫌の良さそうな表情に切り替えて言った。
「よし、お前の名は今日から<ラクダ>だ。俺のことは、そうだな――」彼は僕の前にパッケージを投げてよこす。「<コウモリ>と呼んでくれ」
「なんですか、それ」と僕は二つの意味を込めて言った。見たこともない銘柄だったし、名前を伏せる意味も判らない。昔は<ジーパン>といったあだ名を付けるのが流行したこともあったらしいが、彼の年齢は二十代後半としか見えない。それに時代が古すぎる。
「これ、知らないか?」
 僕は首を振る。
「ある筋では有名なんだ。いいか、この煙草を吸う人間には三種類いる。貧乏学生と、馬鹿と、天才だ。……俺は、どれに見える?」
 さすがに初対面の、それもおそらく年上の人を馬鹿呼ばわりする度胸はなかった。しかし天才というのもなんだか憚られる。迷った末、僕は冗談めかして言った。
「……貧乏学生ですかね。それだけ留年してると、教室にもいづらいでしょう」
 コウモリは意外な答えに驚いたそぶりを僅かに見せたが、すぐに今までになく顔を綻ばせた。
「おいラクダ、俺とコンビを組もう。世界を狙えるぜ」



  2


 僕たちはそのようにして出会った。コウモリとのファーストコンタクトを終えた時点で、僕は彼のことが妙に気になっていた。彼の冗談が面白くて気に入ったというのもあるが、勿論それだけではない。煙草の銘柄という偶然ではあるにせよ、ラクダという僕の名は的確に僕の性質を表現していたし、コウモリという彼の名も確実に彼の性質を表現していた。僕はラクダのように何も考えず何も主張せず、しかし瘤の中には何かがあると思っていたし、彼はコウモリのようにフラフラと闇の中をさ迷い歩き、しかし確実に色々な音を聞いていた。僕には何もなくて、彼には何かがあった。その<何か>が一体何かというのは、僕は語る術を持たない。残念なことに。
 だから僕は、僕なりのやり方で彼を語ってみようと思う。そうすることで、彼はずっと生き続けられるような気がするからだ。


 コウモリはその名の通りに痩せていた。それはどちらかというと不健康な痩せ方で、服の上からではそれほど痩せているようには見えないものの、顔や首筋や手からは確実に痩躯独特の香りが漂っていた。不健康に見えたのは、もしかすると単に店の照明の問題だったのかもしれない。僕はついぞ彼と店の中以外の場所で会うことがなかったのだ。
 店にはいつもスーツで来ていた。それは若干くたびれた空気を発していたが、上等な品であるらしかった。彼の体のために選ばれたように見事なフィット感で、縫い目に手を触れれば切れそうなほど鋭利で完璧なラインだった。彼とスーツは、慣れ親しんだ夫婦のように落ち着いた感じを見た人に与えた。靴も、ベルトも、腕時計も、ビジネスバッグも、彼の選ぶ小物は実にシックだった。彼の服装を音楽のジャンルにたとえれば、ほぼ間違いなくクラシックだった。
 そんな彼でも、時々ではあるが、わざと小物の調子をはずすこともあった。そのことを指摘すると彼は決まって今日はデートなんだ、と言った。本当かもしれないし、冗談かもしれない。彼は真剣な表情でジョークを言うので、ときどき僕は全く知らないT字路に立たされるような感じを受けさせられるのだ。とにかく、たまにはジャズを聴きたくなることもある、ということだ。
 そして目つきは鋭かった。途轍もなく存在感があった。眼光のきつさを隠そうとして、かえって細めた目のために強調された結果の鋭利さだった。その目で見つめられると、体を貫いて中の神経をズタズタにされそうだった。そして必要な情報は全て抜き取られてしまう。
 しかしコウモリは自分の目のことに自覚的だった。よほどのことがない限り、人の目をじっと見るということをしなかった。その上、冗談を連発することで「怖い目のわりに面白い人」というイメージを効率的に作り上げさえした。彼の冗談は美しかった。芸術的でさえあった。全ての可能性を考慮に入れて、その中で最もいい選択肢を的確に選び出し、さらにそれを冗談にして吐き出していた。
 彼は確固とした自己像を持っていたはずだ。彼の服装から、言葉の端々から、そぶりから、彼の文体が伝わってきた。それは圧倒的なパワーを持っていて、僕は思い切り吹き飛ばされたのだ。
 間違いなく天才だった。



  3


 最初にJOKEに足を踏み入れたその日から、僕は一週間と空けずに店に通っていた。コウモリに会うためでもあったが、JOKEの居心地が最高によかったからだ。小さな店で、店員もナカタさん一人しかいない。客数も多くて五人。品のよい人が多く、騒がしいこともない。柔らかな照明に、ジャジーなBGM。上品過ぎず下品すぎず、落ち着いた内装。店の奥とカウンターの反対側の壁に架けられた、どこかの田舎町を描いたらしき風景画が二枚。誰も投げている人を見たことがないのに、穴だらけのダーツボード。何もかもが、僕に郷愁の念を抱かせる。ナカタさんが親と同じくらいの年齢というのも一つの理由かもしれない。とにかく懐かしい雰囲気で、家に帰るような気分でフラフラと立ち寄ってしまう。そんな奇妙な魅力があったのだ。
 ちょうど一ヶ月が経ったころだろうか、ある日僕が店に行くと、コウモリがいなかった。今まではいつも僕が来るより先にいたというのにもかかわらず。そりゃ彼だって毎日のように店に立ち寄るわけにはいかないだろうが、しかし彼がいないということに、まるで蛇の抜け殻だけを見つけてしまったような違和感を感じた。
 いつもコウモリが座っていた席に座ってみたものの、どうもソワソワとして落ち着かない。とりあえず、とビールにフライドポテトを注文して、彼が現れるのを待ってみることにした。僕のトレードマークとなった<ラクダ>に火を点しながら。
 しかし、当然といえば当然のことなのだが、一人で黙々とビールを飲み、煙草を吸い、またビールを飲んでいるだけでは思ったように時間は過ぎていかない。皮のついたまま大きめにざっくりと切って、それを簡単に揚げただけのフライドポテト。シンプルながらも実に美味い。そんな数少ないつまみの一品だが、もはや真っ白な皿の上にはケチャップとパセリを残すのみだ。ゆっくりと時間をかけて食べたはずなのだが、まだ一時間も経っていない。コウモリという存在の大きさに今更ながら気づかされる。彼の饒舌を聞いているだけで時間はそれこそ光のように過ぎ去ってしまう。また次回コウモリがいることに期待して、今日のところは引き上げるかどうか迷ったが、僕はふとナカタさんと話をしてみたい、と思った。よく考えれば、僕は彼のことも、彼とコウモリとの関係も知らなかった。ナカタさんはジュークボックスのような人だ。話しかければ確実にいい言葉を返してくれるが、向こうから自然と語りかけてくることは少ない。まず僕は彼にコインを入れなければならない。
 僕がナカタさんにどう話しかけたものかと思案していると、そんな空気を感じたのか、彼はさりげなくこちらに近づいてきてくれる。僕の考えが読み取られているのかもしれない。それほど自然だった。一体どんな訓練をすれば、彼のような技術が身につくのだろう? この機会を逃すまいと僕は無理に話題を考えてみたが、口をついて出たものはコウモリのことだった。
「ナカタさん、今日は珍しくコウモリを見かけませんけど、どうかしたんですか? そもそもどうしていつもいるんでしょう」
 グラスを拭く手を止めて彼は答える。
「さあ、私にはなんとも、て所ですね。一体この店のどこに惹かれたのやら」と彼のやり方で僅かに表情を動かす。「そういえば、この前仕事が忙しい、とか言ってましたよ」
 続いてナカタさん個人のことを訊こうと口を開きかけた瞬間に、入り口の扉が開いた。噂をすれば影が差す、とはこのことだろう。
「いやあ、遅くなった。お、ラクダがいるじゃないか。俺がいなくて寂しい思いをさせちゃったな?」
「どうしたんですか、僕より遅いなんて。コウモリがいないJOKEなんて初めてで、何だか落ち着きませんでしたよ」
「そうかそうか、やはり俺がいないと始まらないか」
 コウモリは嬉しそうな表情を見せる。ネクタイを緩ませながら僕の隣(いつも僕が座っている席だ。今日は逆の形になる)に腰を下ろす彼に、ナカタさんは黙ってビールグラスを持って行った。なるほど、最初の一杯はビール、というのが二人の暗黙の了解なのだろう。信頼関係を見せ付けられたような気がして、僕は少しだけ気恥ずかしい気持ちになった。
「ついさっき、ちょうどコウモリの話をしてたんですよ。仕事が忙しくなったとか」
 彼は優雅な動作で煙草に火を点け、答えた。
「まあ、そうだな。タナカから何か聞いたのか?」
「いえ、殆ど何も。ただ、忙しくなったらしい、とだけ」
「配置替えがあったんだ。前よりちょっとだけ慌しくなった」
「何のお仕事をしてるんですか?」
「ん……」彼は微かに顔を曇らせた。あまり触れてはいけない話題だったのだろうか。ナカタさんはそしらぬ顔で酒棚の整理をしている。
「井戸って知ってるか? 井戸。俺の仕事は、遠くの井戸まで行ってバケツ一杯に水を汲んで、これまた遠くの別の井戸にその水を放り込むようなもんだ。誰でもできるし、全くやりがいのない仕事だよ。冗談のタネにもならん」
「なんとも抽象的な話ですね」
「多くのことは抽象的にしか言えないんだ」
「でも、忙しいって言ってた割には楽しそうですよ」
 彼は煙草を咥えたまま頭をポリポリと掻いた。
「配置替えがあって、新しい井戸に回されたんだ。なんとその井戸はオレンジジュースが湧き出る」と彼は片一方の口角だけを上げる。「そりゃ楽しくもなる。でもやってることは一緒だ」
 コウモリと二人で煙草を吹かしながら、僕は彼の言葉を反芻していた。薄汚れた水色のポリバケツの中に汲まれていくオレンジジュース。深刻な表情で古井戸の釣瓶を引っ張っているコウモリ。その絵の中で異彩を放つ黄色の液体。彼はそこに何を見るのだろう。


 僕は彼について何も知らないことに思い当たる。結局、彼の仕事についても具体的には知れなかった。年齢も判らない。本名すら知らないのだ。どこに住んでいるのか、趣味は何なのか。好きな食べ物は何で、嫌いな食べ物は何なのか。音楽はどんなものを聴くのか。影響を受けた人は誰か。何でもいいから、彼のことを知りたいと思った。もしかすると、ナカタさんのことを知りたいと思ったのも、間接的にコウモリを知りたいという意識が働いたのかもしれない。きっとそうだ。
 僕は彼に対する憧れのような意識を抱いていたことを知る。
「そういえば、僕はコウモリのことを全然知らない」
「どうしたんだ、急に?」
 彼は懐かしそうに笑った。トントン、と煙草の灰を落とす仕草までが懐かしそうだった。
「それに、俺のことを知ったって何の役にも立たないだろ。まだシャンプーハットの方が役に立つ」
「紙やすりとか」
「そうそう、その調子だ」
「クレヨン、分度器」
「ねこ足のバスタブ」
 唐突に登場した上品な言葉に笑ってしまう。よくもまあ、役に立たない物を次から次へと思いつくものだ。僕はグラスに手を伸ばし、何かいい物はないかと思いを巡らせる。ホロスコープ……プレパラート……紙粘土……
「冗談が好きで、テレビが嫌いだ」
 彼の言葉で僕の思考は押しとどめられる。急な話題の転換に頭の方がついていかず、「え?」と間の抜けた音が出てしまった。
「俺のことが知りたいんだろ? 教えてやるよ。テレビはニュースしか見ない。バラエティーは絶対に見ない。嫌いなんだ。訳のわからないヤツが派手な動きをしながら勢いだけの言葉を言う。そこにテロップが出て、親切なことに『ここが面白いんですよ』と教えてくれる。全く頭を使わなくていい。最高だ。親切すぎて涙が出る」 それだけを言ってしまうと、彼はグラスに残っていた液体を一気に飲み干す。そして左手を大きく挙げ、パチン、と指を鳴らした。
「ナカタさん、ギムレットだ」
 指を鳴らすまでもなくナカタさんはコウモリの方を見ていた。彼は目をつぶり眉だけを上に動かす。「任せてくれ」と沈黙が語っていた。


「なあラクダ、世の中で最も高尚な冗談は何だと思う?」
 僕は少し考えて、かぶりを振る。
「正直、想像もつかないですよ」
 コウモリはギムレットの薄緑を見ている。そういえば、この店の扉もこんな感じの色だった。同じような色でも、三角形のグラスの中に入れられると不思議と生き生きと輝いて見えて、生命力あふれる新緑の木を彷彿とさせる。コウモリは煙草を引っ張り出し、神聖な儀式のような動作で火を点けた。パッケージも同じ色をしていた。奇妙な符合。
 彼はグラスから僕の目へと視線を移す。
「『坊さんが屁をこいた』だ。俺はこの冗談が最高だと思ってる。なあ、想像力の要らない冗談なんて無意味なんだ」
 目線が再びギムレットに向けられる。彼はグラスに手を伸ばし、途中で止める。行き場を失った中途半端な左手を残したまま、右手を口元に運び、一筋の白い煙を吐き出した。彼は話を続ける。
「坊さんがしかめっ面してお経唱えてる時に、不意にバフッ、だよ。絵面を想像して見ろ。このギャップが最高に面白い。確かに面白いが、しかし、だ。どうして坊さんが屁をこいたらおかしいんだ? 坊さんだって人間だ、そりゃ屁をひりたくなることだってある。それはこういうことだ。つまり、俺たちは坊さんを『坊さん』として神格化してしまっているために、屁をこいちゃいけない存在だと思い込んでしまってるんだよ。ギャップを笑うと同時に、そのギャップを作り出している俺たち自身の愚かさを笑い飛ばしてるのさ。判るか? これ以上短くて、これ以上頭を使う冗談を俺は知らない」
 僕は上手く答えを返すことができなかった。「それもそうだ」「なるほど」「確かに」「さもありなん」色んな発言が浮かんでは消えた。どれもが適切なように思えたし、どれもが不適当なように思えた。僕は考える。彼が言わんとしていることはよく判ったし、「それはそうだ」とは思う。しかし、これらの言葉の情報量はゼロだ。彼の言う「想像力」を僕は持っていない。そのことを痛感する。判らなかった。何を言ったとしても、そこには想像力が含まれていないように感じた。
「どうすれば、コウモリみたいになれるのかな」
 やっとの思いでその言葉を発したとき、僕の指の間の煙草はずいぶんと短くなっていたように感じた。コウモリは穏やかな表情を浮かべていた。何か可愛らしい小動物を手の上で弄んでいるような、そんな穏やかさだった。
「やっぱりお前は、昔の俺に似ているよ」
 そう自嘲気味に呟いて、コウモリは足を組み替えた。
「本を読め。それも、なるべく下らないと思うようなヤツをな」



  4


 僕はできるだけ下らないものを読もうとした。あくる日、僕は古本屋に足を運び、そこで「女の口説き方」といったようなハウツー本を買った。酷いタイトルで、装丁も酷かった。何件の古本屋をたらい回しにされたのか、本の状態も悪く背表紙にはいくつもの値札が重ねて貼られていた。内容も本当に凄く下らなかった。偉ぶった口調で、大体は僕が知っているようなことを書いていた。そして別に改めて読みたいと思うようなものでも当然なかった。選んだものが悪かったのかもしれない。しかし僕はコウモリが言いたかったことがやはり判っていなかった。なぜ下らないと思うような本を読めと彼が言ったのか、それを想像するということを怠っていた。
 結局、彼が言ったことの真意は次回聞いてみるということにして、以前買ってそのまま放っていた本を探し出してきた。これは数年前ベストセラーになったものらしい。当時の友人に勧められたはいいものの、読むことはなかった恋愛小説。電車の中の移動時間をもっぱら読書の時間に当てた。またJOKEにコウモリがいないことがあれば、その時間もつぶせる。これはなかなか悪くない考えに思えた。


 何日か経ち、もう何度目かも判らないギムレット色の扉を押し開けると、今度はちゃんとコウモリがいた。いつもの席に座り、いつものビールを飲み、いつもの煙草に火を点けた。
 彼は出し抜けに何か読んでみたかどうかを訊いてきた。僕は正直に下らないと思える本を読んでみたのだが、意図がわからなかったので今は普通の本を読んでいると答えた。彼はそうだろうなあ、と言いたげな顔をした。そしてカバンの中から一冊の薄い本を取り出した。何度読み返したのか判らないほどボロボロだった。僕はそれを受け取った。
 手に取ってみると、ますます薄く、ボロボロだということを実感した。赤と緑がそれぞれ右と左を染めている。あまり目に良くなさそうな装丁だった。その表紙にはこう書かれていた。
 国語。
 それは国語の教科書だった。
「何ですか、これ」
「知らないか? 教科書」
「そりゃ知ってますけど……」
 まだ彼の意図は掴めなかった。僕は僕なりに想像力を働かせてみたつもりなのだけれど、それでも全然判らなかった。僕は待った。彼が説明をしてくれることを期待していた。彼は僕の目を見た。目の奥の更に奥を覗き込まれた気がした。
「テロップが必要か?」
 凍えるような一言だった。
「なあ、俺はお前が考えてることくらい手に取るように判るんだ。期待するんじゃない。自分で考えて、自分の意見を言え。それが間違っているかどうかなんて恐れなくていい。失敗するのは悪いことじゃない。同じことを繰り返さないようにすればいいだけだ」
 僕はじっと押し黙って教科書の表紙を眺めていた。ただの教科書を、こんなにくたびれるまで読んだのか? 一体どうして? 想像もつかなかった。コウモリ流の冗談かもしれないが、それにしては手が込みすぎている。
「みんなが俺に期待しているような気がするんだ。これは俺の気のせいなのか? お前なら俺の意図を汲んでくれる、と。確かにそうだよ。俺は殆どの人の思惑が読める。でも疲れたんだ。その思惑通りに動いてしまっている俺自身にも嫌気がさしてきた。疲れたんだ」
 そう言ってため息をつく。コウモリはどこも見ていないようだった。言ったことも誰かに向けたわけではなく、むしろ自分自身に言い聞かすような口ぶりだった。乱暴に煙草を消すと、彼は席を立った。
「その教科書はお前にやる。宿題だ。次までに、ちゃんと考えておけ」
 あとに残されたのは孤独な空気だけだった。


 そして次の機会はやってこなかった。



  5


 コウモリは僕の前から姿を消してしまった。国語の教科書だけを残して。
 それでも僕はまたコウモリに会えることを期待して、何度もJOKEに通った。そこで教科書をずっと読んでいた。中学一年生のために編まれたものだった。載せられている文章自体は平易なものだったし、僕でも名前を知っているような文学作品や詩ばかりだった。実際にコウモリが使っていたのか、折り目がついていたり、傍線が引かれていたり、傍線同士が線でつながれていたり、書き込みがあったりした。書き込みは極簡素なものだったが、その数は膨大だった。ページの殆どが傍線と書き込みで埋め尽くされていた。「喜」や「哀」といった単語が無数に書き込まれていた。
 その教科書を三度読み終えたとき、僕はようやくコウモリが言いたかったことが判ったような気がした。全ての言葉には無駄というものがないのだ。ありとあらゆる言葉が何らかの意味を孕んでいた。一見ただのノイズにしか見えないような単語でさえも、想像力を働かせればそこに意義を探ることができた。


 次に二年生用の教科書を購入し、コウモリと同じことをやってみた。傍線を引いて、バラバラにして、その表現するものを掴もうとした。この作業はすごく楽しかった。今まで自分が使っていなかった想像力という機能を思いっきり発揮させた。もうこれ以上深く読むことはできないと思ったものでも、もう一度読み直してみると新しい発見があった。
 コウモリはまだ姿を現さなかった。ナカタさんに探りを入れても、仕事が忙しいようだ、と本当か嘘かも判らない言葉しか返ってこなかった。
 彼は僕のことを「昔の自分に似ている」と言った。彼にもそんな時代があったのだ。僕もいつかは彼のようになれる時が来るのかもしれない。彼が何を思ってここを去ったのか、ちゃんと理解することができるようになるのかもしれない。


 今日もライム色の扉を開け、彼がいないことを確認してからいつもの席に座る。教科書に書き込み、ビールを飲んで、煙草を吸って、ナカタさんと話をする。
「そういえばラクダさん、『羅生門』は今の子達もやるんですかね」
「ええ。確か高一の教科書に載ってますよ」
 僕はピンと来た。
「コウモリの行方は誰も知らない、か」
 きっと井戸でも眺めていることだろう。